Episode.2

 私が彼に興味を持ち始めたのは、確か今から半年ほど前……一年生の秋頃だったと思う。いつも学校帰りに寄る近くのスーパーで見掛けたのがもともとの切っ掛けだ。

 ただスーパーで見掛けただけだったらきっと、特に気にする事もなかっただろう。同じクラスの男の子と偶然スーパーで鉢合わせただけ、と流したかもしれない。

 でも、彼は私の目を惹いた。いつも小さな女の子を連れていたからだ。

 女の子は保育園指定の園児服を着ていて、その身体の大きさから見て三歳か四歳くらいだった。とても小さくて可愛らしくて、見ているだけで頬が緩んでしまうような、天使みたいな女の子だ。

 最初は親戚の面倒を見ているだけかと思っていたが、女の子は彼を『お兄ちゃん』と呼んでいた事から、どうやら年の離れた妹らしいという事がわかった。

 また、彼をスーパーで見掛ける時は必ずその女の子を連れていた。学校が終わる時間を考えると、学校から保育園まで直行して、その帰りにスーパーを訪れているのであろう。そして大概いつも、スマートフォンを見ながらうんうんと商品棚の前で唸っていた。きっと保育園まで毎日お迎えに行って、毎日スーパーに寄って献立を考えていたのだ。

 私も週に何度か家で夕飯を作っているからわかるが、学校後に夕飯の仕度は結構大変だ。手を抜きたいと思う時もあるし、いっその事お祖母ちゃんに夕飯を全部作ってもらった方が楽ではないかと思う時もある。

 でも、お祖母ちゃんは料理があまり得意な方ではないし、実のところ、お祖父ちゃんも私の作るご飯を楽しみにしている。どうせ私も食べるなら美味しいものを食べたいし、自分で好きなものを作れるのはある種料理係の特権だ。そんな下心もあって、疲れた身体に鞭打って学校帰りにスーパーに寄っていたのである。

 毎日大変そうだなぁ、と思いながら、妹を連れてスーパーの商品棚と睨めっこしている彼を眺めていた。そうして悩んでいる間に妹さんがとことこと離れていくので、遠目で見ていて迷子になるのではないかといつもハラハラしていたものだ。

 そんな彼を覗き見る日々は何か月か続いた。その間、彼が私に気付いた事はない。きっといつも妹さんや献立の事で頭が一杯なのだろう。

 私も私で、いつも心の中で『そっちよりもこっちの方がその料理に合うよ』とか『え、ソース自分で作らないの?』とか口を挟んでいたように思う。本音を言うと、あまりに気付かれないので、ちょっとだけ腹が立っていたのだ。

 毎日学校で会っていて、その後にスーパーでも鉢合わせているのだから、一度くらい気付いてくれてもいいのに。私ってそんなに存在感ないのかな? さすがにちょっと自信がなくなってくる。

 でも、もし気付かれたら気付かれたで、私もどうしていいのかわからなくなっていたのかもしれない。

 スーパーで何度も盗み見ていた事が知れたら、気味悪がられるだろうか? いや、普通に気味悪がられるに決まっている。きっと逆の立場だったら、私も怖いと思うだろうし。

 というか、今までよくそうした視線を男の子から向けられていたので、盗み見られる方の気持ちはよくわかっているつもりだ。なるべく気にしなくても済むようにはなってきたけれど、それでもやっぱり人の視線は気になるし、場合によっては気持ち悪いなと感じてしまう時もある。

 私の事を学校一の何ちゃらだなんだと騒ぎ立てる人がいるけども、そもそも見られる事が好きではない私はきっと、その学校一の何ちゃらとやらに向いていないのだろう。そっとしておいて欲しいというのが本音だった。どちらかというと、男の子、いや、男性に対しては良いイメージがなかったからだ。

 でも、それなのについ彼を盗み見てしまうのは、どうしてなんだろう? あの時の私は、それがわからなかった。今なら何となくわかるけど、それは気付かなかった事にしておきたい。恥ずかしいし。

 それからいつしか、学校でも彼を目で追うようになっていた。妹さんがいない彼、即ち兄ではない彼の素顔はどんなのだろう、と気になっていたのだ。

 彼はクラスの中でもあまり目立つ方の男の子ではなかった。というよりむしろ、できるだけ目立たないようにしているようでもあった。最低限の事だけやって、家に帰る──それを何よりも重要視しているとも見受けられた。

 彼は人付き合いもできるだけしないようにもしている節があったように思う。放課後に何度か遊びに誘われていたが、いつもその誘いを申し訳なさそうに断っていた。

 誘った男の子は「あいつ誘っても来ないから」と他の人に言われていたけれど、私は内心それが不愉快だった。彼が不本意で断っていた事くらい、その表情を見れば明らかだからだ。彼は誘いを断る時、いつも申し訳なさそうな顔をしていた。どうしてそれに気付かないのか。『これだから男子は!』と内心毒づいていたものだ。

 私がそうして苛立ってしまっていたのは、きっと彼が断わらざるを得ない理由を知っていたからだろう。彼には妹がいて、その妹を迎えに行かなければならないから遊べないだけなのである。

 ただ、同じクラスの間谷信也またにしんやくんとだけは唯一気が合うのか、よく一緒にいるところを見掛けた。私が見ている限り、彼が自分から話し掛けていたのは間谷くんだけだったように思う。

 誰とでも話すけれど、誰にも深入りをしない──彼はそんな生き方を自ら選んでいるようでもあった。その理由は、きっと妹さんがいるからだろう。

 そうして彼を見ていると、もう一つの真実が見えてくるようになった。誰も見ていない一瞬の間──それはきっと普通なら見逃していてもおかしくない程の間──にとても疲れた表情をするのだ。

 窓から外を眺めている一瞬であったり、ぼーっと教科書を見ている間だったり……彼から随所に疲労が垣間見えていた。友達と話している時もいつも愛想笑いを浮かべていて、何でもないように装っているけれど、ほんの一瞬疲れた表情を見せる。

 それを見ていると、何だか胸が痛くなった。その理由も、私には何となくわかってしまっていたからだ。

 親御さんがいないのかな、家でもずっと妹の面倒を見ているのかな、と考えてしまっては、私はいつも頭をぶんぶんと振ってその思考を振り払っていた。

 家庭環境が複雑なのは私も同じ。そんな私があれこれ人の家庭事情を憶測するのは、失礼だ。

 ただこうして見ていてわかったのは、彼がとても優しい人間であるという事。自分の事よりも妹さんを大事にしていて、どれだけ疲れていても表に出さず、言い訳もしないで真面目に学校の授業や行事にも取り組んでいる。それがどれだけ大変なのか、私には想像がつかない。私は誰かの為に、そこまで自分を犠牲にした事などなかったからだ。

 その無理をする姿は、兄というよりは娘の為に頑張る父親の姿に近いのかもしれない──父親のいない私は、そんな幻想を彼に抱いていたように思う。

 三学期の終わり頃、そんな私の兄妹観察にも変化が訪れた。

 ついにその妹さんに、気付かれてしまったのである。私がいると、彼女はいつもこちらをハッとして見るようになった。

 最初は私もどうしていいかわからず気付かないふりをしてしまったのだけれど、そのうち笑顔を向けてみたり、手を振ったりしてみた。単純に私は、彼女に気付かれた事が嬉しかったのだと思う。隣にいる、そして毎日学校で顔を合わせている彼女のお兄さんは、全然私に気付いてくれなかったのだから。

 妹さんはぽかんと不思議そうに私を見つめるだけだったが、そのうち遠慮がちに手を振り返してくれるようになった。思わず駆け寄ってぎゅっと抱き締めたくなる程可愛らしくて、私はいつも身悶えしたものだ。

 自分が子供好きだという自覚はあまりなかったのだけれど、なんというのだろう。母性本能を擽られるというのは、こういう事を言うのだろうか。

 それから春休みを経て、また彼と同じクラスになれた事を、私は内心喜んでいた。何だか、あの可愛らしい妹さんとの接点を繋ぎ止められた気がしたからだ。

 ただ、二年生になって早々に驚くべき事が起こった。そして、それがこの慌ただしくも私の人生を大きく変える一か月へと続いていったのだ。

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