Episode.3
私と彼の関係が変わり始めた切っ掛けは、スーパーで彼が私の存在に気付いた事だろうか。気付いたというより、珠理ちゃんが彼をちょんちょんと引っ張り、私の方を指差したのだけれど。
珠理ちゃんがどういう意図で私の事を彼に教えたのかまではこの時の私はわからなかった。でも、これまで半年近く気付かれていなかった盗み見がバレてしまったのではないかと内心ひどく怯えていたのを今も覚えている。咄嗟に珠理ちゃんに手を振って彼に会釈をして誤魔化したものの、内心バクバクだった。
今となっては笑い話。でも、あの時はそれが不安で不安で仕方なかった。彼にどう思われたのかが気になって仕方なかったのである。
そして、その翌日彼は私を唐突に呼び出して──とんでもないお願いをしてきたのだ。
『俺のお母さんになってくれ!』
このお願いに、私の思考がショートしてしまったのは言うまでもない。
私は私で今まで盗み見ていた彼から呼び出されて、心臓が破裂しそうな程ドキドキしていたのだ。男の子からの呼び出しで今までドキドキなどした事はなかったし、告白なんてされても面倒なだけだとさえ思っていた。
でも、この時は……彼に呼び出されて告白されるかもしれないと思った時は、そうではなかった。緊張し過ぎてお昼だって喉を通らなかったくらいだ。
きっとあの時の私は、告白の言葉を待っていたのだ。
もしもあの時彼からその言葉を告げられていたら、私はどんな反応をしただろうか? 今では想像もつかないけれど、もしかしたらOKしてしまっていたかもしれない。既に私は彼を意識していて、ずっと気になってしまっていたのだから。
それが、いきなり『俺のお母さんになってくれ』だ。さすがに私もどう反応していいのかわからなかった。
というよりむしろ、困惑よりも悲しさや落胆といった感情の方が大きかった。それはきっと、私が彼の事をほんの少し知っていたからだろう。
何となく彼の家庭事情が大変なのは、これまでの彼の様子を見ていて察せていた。親御さんが育児に関心がないのか、仕事で家にいないのかまではわからなかったけれど、家でも妹の世話をしていて大変なのは想像に容易い。
しかし、だからといって同級生に〝お母さん〟を求めるのはどうかと思うのだ。そもそも私は母親を知らないわけで、同級生男子のバブみプレイ願望になんて応えられるはずがない。というか、彼がそんな変態さんだと思ってもいなかったので、ショックが大きかったのだ。それで、まくしたてるようにして彼に断りの言葉を述べて、そのまま逃げるように屋上から立ち去ってしまったのである。
あの時、私は私でなんだか勝手に失恋した気分になっていたのだと思う。妹を大切に思う彼にどこか父親らしさを見出していて、もっと頼りになってとにかく大人で強くて優しい人、という幻想の彼を作り上げていたのだ。
その幻想が打ち砕かれたショックで、私は彼が誤解を解こうとしてくれていたのに逃げ回ってしまい、それが切っ掛けで彼の立場を悪くさせてしまった。
そこでようやく私も早とちりだったのでは、と冷静になり始めた。少なくとも私が見ている限り、彼は品行方正で真面目、それから少し大人びた男の子だった。そんな彼が、ろくに話した事がないクラスの女子にいきなり『お母さんになってくれ』だなんて頼むだろうか?
そう考え至った時、私は背筋が冷たくなった。もしかしたら、とんでもない勘違いをしていたのかもしれない、と思い至ったのだ。
それから冷静になって彼に話し掛けようとするも、クラスの子達から邪魔をされてしまって、上手くいく様子もない。彼は見るからにしょげてしまっていたし、私も途方に暮れていた。
そんな時に、友人の
その日がきっと、私達のスタートライン。
屋上で彼の口から事の真相──珠理ちゃんの願い──を聞いて、最初は自分では無理だと思った。私にできる事だったら力になってあげたかったけど、一番私にできないお願いだと思えたからだ。私には父も母もいなくて、『お母さん』を知らないのだから。お母さん役が向いていないにも程がある。
でも、その日はそれからずっと悩んでいた。珠理ちゃんがどうして私に〝お母さん〟を求めるのかわからなかったけれど、でも、私にそれを求めるのは珠理ちゃんなりに何か意味があるんじゃないかとも考えられたからだ。
そして翌日、悩む私に彼はこう言ってくれた。
『知らないからこそ、珠理の気持ちが一番わかるんじゃないかなって思ったんだ』
この言葉が私の背中を押してくれたのだと思う。私が引っ掛かっていたのも、きっとそこだったからだ。
私にはお父さんもお母さんもいない。だからこそ、お母さんに何をして欲しかったかは誰よりも解っているつもりだ。
もし、珠理ちゃんのお願い事を叶えてあげられたなら……一人で寂しい想いをしていたあの時の自分も救えるのではないか。私はそんな打算的な思いもあって、彼のお願いを聞き入れたのである。
今にして思えば、私が打算的だったのはきっとそこだけではない。もっと別の下心もあったはずだ。
基本的に人に頼らなそうな彼に頼られた事が、嬉しかった。そして、もし私が頑張れば、彼が時折見せていた疲れも解消できるのではないか──そんな思いもあった。
あの時の私はまだ自覚していなかったけれど、もう彼の事が好きになっていたのだと思う。
妹の為に自分の恥も省みずお願いして、自分を犠牲にしてでも家族の願いを叶えようとする、誰よりも強くて優しい人。それはきっと、私がどこかで求めていた男性像だったからだ。
お父さんとお母さんがいなかった私は、何となくそんな人の事を好きになりそうだと思っていたけれど……でも、まさか本当にそうなるとは思ってもいなかった。我ながら、単純な女だ。
その後に一緒に食べたクレープも、LIMEを交換した時も、どれだけ私が緊張していたかなんて、絶対に彼は気付いていないのだろう。罪な男である。
それから私と彼と珠理ちゃんの
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