第68話 新しい関係(第二部・最終話)
「実はね、昼間の日記の話、嘘吐いちゃった」
何度目かの口付けを交わし終えた頃、恥ずかしくなったのか、弥織は唐突に視線を逸らしてそう切り出した。
「嘘って?」
「お母さんの日記に『大きな水槽があって、海の中にいるみたい』って書いてあったって言ったけど……実は違うの」
弥織のお父さんとお母さんの初めてのデートで、今朝行った水族館での感想だ。
確かに、初めて行ったデートにしては淡泊な感想だなと思ったけれど、どうやら違ったらしい。
「なんて書いてあったんだ?」
「『この人の隣で見るから、この場所はこんなにも綺麗なんだろう』って」
弥織は柔らかい笑みを浮かべて、床のあたりをぼんやりと眺めて言った。
「で……弥織の感想は?」
その横顔を見ていると、どうしてもそう訊きたくなった。
彼女は昼間『水槽がおっきくて海の中にいるみたい』と言っていたけれど、それとは異なる気がしたからだ。
そうでなければ、今この話題を出さない。
「依紗樹くんの隣で見るから、ここはこんなにも綺麗なんだろうなって……ドキドキしてた」
「同じじゃん」
「うん、お母さんと同じ」
弥織は嬉しそうにはにかんで少し首を傾けた。
昼間と同じやりとり。でも、その内容は大きく変わっていた。
昼間は可笑しそうに笑っていたけれど、今は顔を少し赤くして嬉しそうにはにかんでいる。
これが本当の意味でお母さんと一緒で、そしてその気持ちを彼女自身も共感できたからだろう。
それはきっと、俺達の関係が変わってしまったからだ。昼間と今では気持ちを伝えられる言葉が増えて、そして伝える事に躊躇をしなくて済む様になった。
でも、今となっては、そんなものはどちらでも良かったのだ。
弥織が俺と一緒にいて、そんな風に思ってくれた。それは奇しくも、俺が思っていた事と同じだった。
それが嬉しくて、また見つめ合って笑みを浮かべてから、目を逸らす。
「ってかさ。明日、信也とスモモが遊びに来るのに、どうする?」
急に恥ずかしくなってしまい、照れ隠しでふと突拍子もない事を訊いてみる。
「え? どうするって?」
弥織が顔を上げて首を傾げた。
昼間では予期していなかった展開になってしまったので、彼らの前でどんな顔をしていればいいのかわからない。
実際あの二人を前にした時どうすればいいのだろう? 彼らの前で今まで通り弥織と接するというのは、無理な気がした。
「いや、だってさ。今日の事思い返してみろよ。学校サボってデートしてるし、その後うち来て一緒にお風呂入るし、一緒に寝るし……付き合っちゃうし」
「……キスもしちゃったしね」
弥織が恥ずかしそうに付け足して、顔を赤くする。
恥ずかしいなら言わなければいいのにと思うものの、そう付け足してくれた事が嬉しかった。
「ああ……関係、変わり過ぎだろ」
弥織は「仕方ないよ」と恥ずかしそうに笑って、続けた。
「だって……変わっちゃったんだもん」
そして、じっと俺を見つめる。
その瞳は夢を見る様にキラキラ輝いていて、見ているだけで吸い込まれそうな瞳だった。
「そっか。仕方ないか」
「うん……そうだよ」
その言葉を合図に、互いに瞳を閉じて、そっと顔を寄せる。
何度目かわからないキス。まるでお互い今まで気持ちを抑えていたのを解放する様に、何度も何度も口付けを交わす。
そんな俺達こそ、きっと〝ただの真田依紗樹〟と〝ただの伊宮弥織〟で、いつか〝おとーさん〟と〝おかーさん〟の魔法が解けてしまったとしても、俺達の関係は続いていくのだろう。
魔法が解けても解けなくても、これから新しい事はたくさん起こる。
明日から信也とスモモも交えて五人で遊ぶ様になるし、ゴールデンウイークが終われば林間学校だってある。
今年はきっと、俺にとっては想像もしなかった様な楽しい事がたくさんあるはずだ。
でも、楽しい事だけではない。問題だってたくさん残っている。
まずは親父と珠理の事だ。これは、俺と弥織がいくら〝おとーさん〟と〝おかーさん〟を頑張っても、根本的な解決にはならない。親父が母さんの死と、そして珠理と向き合う事が必要不可欠だ。
だが、親父は見ての通り、今も逃げ続けている。この話を切り出せば、きっとたくさん衝突するだろう。
今までなら衝突して、その頑なさに呆れるか、俺の心が折れて終わるだけだった。
しかし、今の俺は、これまでとは少し違う様に思う。本当に大切な人ができた今の俺ならば、これまでより親父の気持ちに少しは寄り添える気がするのだ。
例えば、母さんが突然旅立った様に、弥織にも旅立たれてしまったら、俺はまともでいられるだろうか?
いや、まともでいられるはずがない。きっと、俺も親父の様に現実から逃避したくなるに違いないのだ。例え無責任だと言われても、自分でも無責任で申し訳ないと思っていても、その過酷過ぎる現実に向き合えないだろう。
そうした気持ちが欠片程でもわかる様になった今ならば、親父ともう少し違う向き合い方もできるのではないだろうか。一緒にするなと親父は怒るかもしれないけれど、ほんの少しだけ、彼の立場や気持ちを慮れる様になった気がするのだ。
そして、弥織の事もある。
彼女は自分で見て見ぬふりをしているが、心の底ではお父さんと会いたがっている様に思えた。いや、会いたいとまではいかないかもしれないが、確認はしたがっている。
自分が誰の子で、お母さんがどんな人だったのか。そして、お母さんとお父さんの仲は、本当に日記通りだったのか。そこに、自分が生まれてきた意義が見いだせると思っているのかもしれない。
もしその時がきたら、俺は彼女の隣に立って、一緒に彼女のお父さんに会いに行こうと思う。
もう伊宮弥織は、珠理の〝おかーさん〟で、俺のクラスメイトで、そして……俺の、恋人なのだから。
目の前で優しい笑顔を浮かべる彼女を見て、俺はそう決心するのだった──。
【第二部 了】
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