第67話
とりあえず弥織に抱き締められている事らしい事だけはわかったが、現状がよくわからなかった。
俺が母を思い出してしまって泣いてしまった時に、彼女が不意に抱き締めてくれた、という事なのは間違いない。ただ、そうする理由がわからなかった。
身じろぎしようとすると、彼女は俺を抱える腕に少しだけ力を籠める。
「……もう、無理しなくていいよ」
弥織は俺の耳元でそう小さく言った。
「何、を……」
彼女からそう言われた瞬間、胸の奥が熱くなった。
これまで、自分のその本心を心の中の部屋に閉じ込めて、それが溢れ出さない様に必死にドアノブを握っていた。しかし今──ドアノブを強く握る俺の手を、彼女の手がそっと優しく包み込んでくれた様に思えたのだ。
「お母さんを亡くして辛かったのは、依紗樹くんも同じでしょ? 一人でずっと我慢して、〝お兄ちゃん〟する為に、ずっと頑張ってたんだよね……? でも、もう我慢しなくていいから」
弥織が、ドアノブを握る俺の手をそっと解いていく。
その瞬間──とめどなくどうしようもない感情の波が、まるで津波の様に押し寄せてきた。それはまるで嘔吐の様で、とてもではないが我慢できる代物ではなかった。俺が五年間保ってきた防波堤を、これでもかというくらい破壊し尽くしたのだ。
母親との小さな想い出、母親がいなくなって悲しかった事、辛かった事、無理をしていた事、そんな自分の中で必死に堪えていたものがとめどなく溢れ出てくる。
──ああ……こいつ、ずっと知ってたんだな。
弥織はきっと、ずっと前から俺の本心に気付いていたのだ。
本当は母親がいなくなって、心が張り裂けそうな程辛かった事を。そして、それを隠す為に、珠理の面倒を看ていた事を。
弥織が俺の手伝いをしてくれていたのは、自分と同じ苦しみを味わっていた珠理の為だけでなく、その陰で苦しむ俺を支えてくれる為でもあったのだ。
「悲しい時は悲しいし、寂しい時は寂しいって、言えばいいんだよ。お母さんの事は私にはどうする事もできないけど……でも、私はちゃんと傍にいるから」
弥織は俺の頭を抱える力を緩めて少し顔を離すと、優しい眼差しで俺を見つめて続けた。
「……傍にいないと困るって言ったの、依紗樹くんでしょ? だから、傍に居させて欲しいな」
傍に居てくれなきゃ困る──これは昼間の水族館で俺が言った言葉だ。
あの時は、彼女を慰める為に言ったつもりだった。自分なんていない方が良かったと泣く彼女を元気付けたい一心で言った言葉だ。
だが、その言葉が今度は俺に向けて使われていた。俺を元気付ける為に、彼女がその言葉を掛けてくれているのだ。
「泣きたくなった時に誰かが傍に居てくれたら……きっと、心細くないから。私もさっき、そうだったし。だから、ね?」
泣いていいんだよ──彼女にそう言われた気がして、その瞬間に感情の防波堤が完全に壊れ去った。まるで決壊したダムの様に色んな感情が零れ落ちてきて、自分一人では制御できない。
涙がとめどなく溢れてきて、ただただ泣きじゃくった。子供みたいに彼女の胸に顔を埋めて、嗚咽する。
その間、弥織はずっと俺の頭を撫でてくれていた。同い年のはずなのに、どうしてかそこに母の様な安らぎを感じてしまって、甘えてしまう。
誰かに甘えた事など、この五年間覚えがなかった事だった。
「だってさ」
「……うん」
彼女の細い体を力一杯抱き締めて、ただ自分に偽っていた本心を漏らしていく。
「いきなりいなくなるとかさ……意味わかんねーじゃん」
「うん」
弥織は一言一言にしっかりと頷いてくれて。
「親父もさ、母さん死んで辛いのわかるけど……全部投げ出されて、俺だって大変に決まってんじゃん。どうしていいかなんて、わかるはずないじゃんか」
「そうだね……」
自らも涙しながらも、ただただ俺の言葉を肯定してくれた。
それは誰にも言えなかった言葉で、誰かに聞いて欲しかった弱音。そして、誰かにこうして「そうだね」と同意して欲しかった本心。
俺はそれからも抑え込んでいた気持ちをずっと吐露し続けた。自分でさえも、そんなところまで抑圧していたのか、と思わされる程だった。
弥織は俺の話を黙って聞いてくれていて、ただただ頷いてくれた。
その間、自らの感情を吐露しながらも、どこか冷静にその状態を見ている自分もいて、彼女は一体いつから俺の本心に気付いていたのだろうか、と思いを巡らせていた。
おかーさん役を引き受けてくれた時だろうか。それとも初めてうちに来た日だろうか。それともナポリタンを食べていた時だろうか。或いは俺が友達を作らない理由を伝えた時だろうか。
それがいつかはわからない。ただ、彼女は俺の本心に気付いて、きっとそんな俺を救いたいと思ってくれていたのだろう。
俺が、彼女を救いたいと思ったのと同じ様に。
「今まで依紗樹くんはすっごく大変だったけど……もう大丈夫だから」
俺が言葉に詰まって嗚咽していると、弥織は優しい口調で言葉を紡いだ。
「私がいるから。依紗樹くんがこれまで独りで頑張ってきた事、私も一緒にするから。だから……もう、独りじゃないよ」
彼女は優しく微笑んだまま、そして同じく目を真っ赤にして涙を流して言った。
どうしてここまでしてくれるんだ──彼女に対して思っていた疑問が、今まででずっと大きくなる。
「なあ……お前さ、どうしてそこまで俺なんかにしてくれるんだよ。俺なんて、別に何もないのに──」
「ねえ、依紗樹くん」
弥織は俺の言葉を遮って、続けた。
「……これ以上、言わせないで」
顔を赤らめながらも、叱責する様にじぃっと俺を見た。
潤んだ大きな瞳の中に俺が映っていて、その瞳から否応なしに彼女の気持ちが伝わってくる。
いや、俺はもっと前から彼女の気持ちに気付いていたはずだ。
ただ、怖かったのだ。もし、この関係が変わってしまって、〝おとーさん〟と〝おかーさん〟の関係が続けられなくなってしまう事が。そして、彼女との繋がりがなくなってしまう事が、恐ろしくて堪らなかったのである。
だからお互いの気持ちをある程度わかっていながらも、前に進めなかったのだ。皆からヘタレと言われるのも仕方ない様に思えた。
「うん……そうだよな。悪い」
お互いにじっと見つめ合った。
これほどまでに人を愛しく思い、大切にしたいという気持ちに襲われたのは、初めてだった。もし俺の思い上がりでなければ、彼女も同じ気持ちなのではないかと思う。
互いの視線から互いの気持ちを確かめ合うと、弥織はそっと瞳を閉じた。瞼を閉じた拍子にぽろりと涙が溢れて、頬を伝う。
俺はそっとその涙を指で拭ってから彼女の頬に手を沿えると、そっと顔を寄せた。
重なり合う、二人の唇。
互いの熱と体温が、触れ合った一部を通して伝わってくる。その熱から、彼女の俺を想う気持ちも同時に入ってきた。
俺の気持ちも、同じ様にして彼女に伝わっているだろうか。伝わっていると嬉しいな──そう思いながら、彼女の体温と心を感じ続ける。
不思議と緊張はしなかった。いつかするであろうキスを想像していた時は、もっと緊張して、一生慣れないのではないかと思っていた。
だが、実際するとなると、まるで自然な事の様に俺達は口付けを交わしていた。
長い口付けだった。
互いに頬から涙を流し、互いを慈しみ、愛し合っている──そんな気持ちがその薄い唇から伝わってきて、叫び出したい衝動に刈られた。でも、きっとどれだけ叫んでもこの気持ちは表現できなくて、相手を愛しいと思う以外では伝える方法を持たない。
二つ隣の部屋では妹がすやすや眠っていて、他に家には誰もいない。周囲は閑静な住宅街なので、車の音もしなかった。まるでこの世界に、二人だけしかいないとさえ思わされる様な時間だ。
俺達は互いにゆっくりと唇を離すと、じっと見つめ合った。
「あのさ、弥織」
「……なあに?」
弥織が笑みを浮かべて、首を傾げる。
その時の笑みは、これまで見たどの笑顔とも異なっていた。
優しくて、可愛くて、慈愛に溢れていて、ただ一番大切な気持ちを俺に向けてくれているというのがわかる笑顔だった。
「妹の〝おかーさん〟やってもらって、〝おとーさん〟って俺も呼ばれる様になって、色々すっ飛ばしてきた感じあって、今更なんだけどさ……」
「うん……」
「二人の時は、別の関係になってくれないかな」
俺の言葉に、弥織は驚いた様に目を大きくして、まじまじと俺を見つめる。信じられない、とでも言いたげな顔だった。
俺は深呼吸をしてから、告白の言葉へとつなげた。
「ずっと、好きだった。嫌じゃなかったら、恋人として俺と付き合って欲しい」
弥織の瞳をじっと見て、嘘偽りない言葉を紡ぐ。
すると、弥織は顔を赤らめたまま、少しむすっとした表情を作った。
「キスした後に、そういう事言うのはずるいと思う……」
視線を逸らして、「ファーストキスだったのに」と少し頬を膨らませた。
「嫌だった?」
答えは分かっているけれど、敢えて訊いてみる。
その先の本心を聞きたかったから。
「嫌なわけ、ないでしょ? 私はずっと……好きだったんだから」
おずおずとこちらを見て、弥織が言った。
「それって、いつから?」
「それは……内緒」
彼女はそう言うと、もう一度瞳を閉じた。俺もそれに応える様にもう一度目を閉じて、そっと唇を寄せる。
想いが通じ合ってしまえば、いつから御飯事が本当の恋になっていたのかなんて、どうでもよかった。
俺は弥織の事が好きだし、弥織は俺の事が好きだ。それだけで全てが完全だったし、世界は完結していた。
俺達が互いに好きでいて、その気持ちが通じ合った──それだけで、十分なのだから。
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