第66話

「ね、依紗樹くん。起きてる?」


 珠理が完全に寝静まった時──目を瞑っていると、弥織が囁く様にして話しかけてきた。


「ん? ああ、起きてるよ」


 ゆっくりと目を開けると、豆電球に照らされた薄暗い部屋の中で、嫣然えんぜんと笑う弥織の姿が視界に入ってきた。

 珠理はくーくーと可愛い寝息を立てている。完全に寝てしまった様だ。


「いつもこんなに早くに寝てるの?」


 弥織は部屋の中にある掛け時計をちらりと見る。

 時刻はまだ二十一時半になるかどうかといったところだった。


「まさか。珠理が寝てから色々家事とか勉強とかしてるよ」


 むしろ、この時間からがようやく俺の自分だけの時間となるのだ。


「じゃあさ、せっかくだし依紗樹くんの部屋、見せてよ」

「俺の部屋? 何で?」

「だって……この前、私の部屋見たじゃない」


 写真でだけど、と弥織が付け足した。

 クマさんのぬいぐるみを選ぶ時の画像を一緒に見ていたのをどうやら根に持っているらしい。ちなみに、その二匹のクマさんは今、珠理の枕元で彼女を見守っている。


「私だけ一方的に見られてるのは、ずるい……」


 弥織は責める様な瞳で俺を見た。

 何がずるいのかはわからないけれど、どうやら納得してくれる気配はない。実際に、高校生が寝るには少し早すぎる。彼女も眠れないのだろう。


「まあ、いいけどさ」

「やったっ」


 弥織が子供みたいにはしゃいだ笑みを見せた。

 どうして俺の部屋を見るのがそんなに楽しみなのか、さっぱりわからない。学校一の美少女、いまいち謎である。

 兎角、俺達は珠理を起こさない様にして、静かに俺の部屋へと移動した。

 俺の部屋は、珠理が寝ている部屋の間に物置部屋を挟んである。一つ部屋があるので、壁越しで音が響かないのが利点だ。多少は話したところで、珠理が起きる事もないだろう。


「ここが依紗樹くんの部屋なんだ~」


 部屋の電気を点けると、弥織は部屋の見回してどこか嬉しそうにそう言った。

 というか、パジャマ姿の女子が俺の部屋にいる。しかも、あの伊宮弥織だ。

 家には当たり前の様に来る様になっていたけれど、彼女が俺の部屋に入る事はなかった。

 居間や台所で彼女を見るのは随分と慣れてきたが、自分の部屋に彼女がいるのには全く見慣れなくて、一気にドキドキする。


「……どうかした?」


 弥織は部屋をきょろきょろして見ていたので、気になって訊いた。


「ううん、男の子の部屋に入ったの初めてだなーって」


 こちらを振り向いた時の彼女は、どこか嬉しそうな顔だった。

 その表情は、先程までの母の顔とは異なって少女のもので、そのギャップの激しさに胸が高鳴る。


「そうだったのか」

「うん」


 弥織は言いながら、本棚の前へと立った。

 変な本は一切ないはずなのに、何故緊張感を伴ってしまうのだろうか。


「私の知らない本とか漫画がたくさんある」

「小学校の時に集めててさ。ま、中学に入ってからはそれどころじゃなくなったんだけどさ」


 中学に入ってから──即ち、珠理が生まれてから。

 あの日を境に、俺は中学生らしい楽しみであったり娯楽であったりとは無縁の生活を送る様になっていた。


「……そっか」


 弥織は少し寂しそうに微笑んだ。

 きっと、俺の言わんとした事がわかったのだろう。


「ねえ、依紗樹くん」

「ん?」


 弥織は先程の寂しそうな笑みのまま、俺に訊いた。


「お母さんの写真、見たいな」

「えっ……」


 少し意外な言葉だった。彼女からそんな要望が飛んでくるとは思ってもいなかったのだ。むしろ、避けたい事なのではないかとすら考えていた。

 珠理は、弥織を〝おかーさん〟と呼んでいる。本物の母親にはなり得ない事は無論わかっているが、それでもその本物と比べるとなると嫌なのではないかな、と思っていたのだ。


「なんで?」

「だって……珠理ちゃん、私の事見て〝おかーさん〟って言ったんでしょ? どれだけ似てるのかなって、ずっと気になってて。ダメ?」

「ダメってわけじゃ……」


 俺は唸りながら、クローゼットの前へと移動した。

 この中の上段の段ボールの中に、家族写真のアルバムが隠してある。まだ珠理がいなかった頃の、三人家族だった頃の写真だ。

 俺自身、母さんが死んでから見ていない。たまに見ようかなという思いに駆られるものの、何かが歯止めを掛けてしまい、結局段ボールに手を伸ばそうとしなかった。

 だが、どうしてだろうか。この日の俺には、その歯止めがなかった。


「ま……いいか」

「えっ」


 俺の返事に驚いたのは、弥織だった。


「どうした?」

「えっと……頼んでおいて何だけど、絶対に嫌がると思ったから」

「まあ、自分でも意外に思ったよ」


 少し前なら、拒絶していたかもしれない。でも、今の俺は彼女に母親の写真を見せる事に関して、嫌とは感じなかった。

 それはきっと、今日という一日を通したからだろう。

 珠理と喧嘩をして、弥織はそんな俺と水族館に行って元気付けてくれた。それから彼女の吐露を聞いて、弥織に珠理との間を取り持ってもらって、妹の本音を聞いた。そして、そこから今日一日は家族の様に過ごしたのである。

 だからこそ俺は、もうその『母親』というものに抵抗感がなくなったのかもしれない。

 クローゼットを開けると、背伸びをして上段の段ボールを取り出す。そこの中から、アルバムを四冊取り出した。


「俺が持ってるのは、この四冊だけかな」


 どちらかというと、画像データの方が多いのかもしれない。ただ、そのデータは俺は持っていない。親父が保有しているはずだが、そのデータをどうしたのかまでは聞いていなかった。

 母さんの実家に行けば若い頃の写真もたくさんあるだろうが、俺が保有しているのはこの四冊のアルバムだけだ。


「ありがとう……見ていい?」

「どうぞ」


 俺がそう言うと、弥織は一番上にあったアルバムの表紙をめくった。

 そのアルバムは、俺が小学校の頃のものだったと記憶している。運動会の写真もあれば、家族で遊園地や動物園に遊びに行った時の写真もあったはずだ。

 どうしてか、それだけで俺まで緊張してきた。


「あっ……」


 ページをめくって弥織が母さんの写真を見た時、小さく声を漏らした。

 母さんが俺に後ろから覆い被さっている写真だった。

 写真の中の俺は小学生高学年だろうか。自我が発達してきたせいもあって、恥ずかしそうな、それでいて少し嫌そうな顔をしている。一方の母さんは嬉しそうに微笑み、その笑顔をレンズに向けていた。

 もう見る事はできない、その母さんの笑顔。

 弥織と母さんが似ているかと言われれば、顔の造り自体はそれほどそっくりというわけでもない。共通点は、髪が長いくらいだろうか。

 だが、どうしてだろう? 母さんの柔和な笑みは、どこか弥織と被って見えたのだ。

 それだけではない。他の写真を見ても、どこか弥織と被る面影があった。

 表情というか、全体の雰囲気が何故か似ている。それは息子の俺が見ていても納得してしまうものだった。

 珠理が母さんと関わり合いがあったのは、彼女がまだお腹の中にいた頃の話だ。

 だが、もしかすると──珠理は、その時の母さんの雰囲気を身体の中から感じていて、それと似たものを弥織から感じたのではないだろうか。

 そんな気がしてならなかった。

 弥織は何も言わずに、黙ったままアルバムのページをめくっていく。ゆっくりゆっくりと、写真を一枚ずつじっくりと見ていた。俺はそれを彼女とともに、確認する様に眺めるのだった。

 母さんの写真を見たのは、葬式の遺影以来だ。それ以降は珠理の事と自分の事で手一杯で、母さんの事を思い返す暇もなかった。いや、思い返さない様にしていた。

 きっと、悲しくなってしまうから。それがわかっていたから、考えない様にして毎日を馬車馬のごとく生きたのだ。

 だが、こうしてアルバムを見てしまうと、ダメだった。

 写真を撮った時やその前後の何気ない会話、親父の声に母さんの笑い声、徒競走に負けて泣いていた時に慰めてくれた時の声、俺を叱ってくれた時の声、それらが表情とともに映像として脳裏に蘇ってきてしまったのだ。

 それと同時に、急に視界が滲んだ。


「依紗樹くん……」


 俺がみっともなく泣いている事に、彼女はすぐに気付いた。

 慌てて涙を拭って、『何でもない』と答えようと思った時だった。俺がその言葉を言う前に、あたたかく柔らかいものに俺の頭は包まれていた。


「え……?」


 視界が真っ暗になって、良い匂いと柔らかいものに包まれる。顔には彼女のパジャマの生地らしきものがあたっていた。

 先程まで珠理が眠っていたその胸に、俺の顔が押し付けられていたのである。

 弥織の良い匂いが、俺の鼻腔から頭の中まで全て満たしていた。

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