第64話
「おかーさん、いっしょにおふろ浸かろ?」
五歳児から次の要求が入って、俺と弥織が同時に「えっ」と声を上げる。
今湯船に入っているのは俺だ。うちの湯船はそんなに大きくはない。入れて二人で、さすがに三人は無理があるだろう。
二人が湯船に入る為には俺が出ないといけないが──俺は目を閉じていなければならない。さすがに目を閉じたまま風呂を出たり入ったりするのは危なくないか? 万が一滑って転んで弥織の方に倒れ込んでしまったら、大変な事になってしまう(そのハプニングを望んでしまう自分がいるのは何故だろう?)。
さて、それにしても、どうやって湯船に出ようか。
「……湯船から出る時だけ目開けちゃダメ?」
「えええぇ……」
ちょっと提案してみたが、弥織の泣きそうな声が聞こえてきた。ダメっぽい。
いや、考えろ、俺。俺ならきっと良い案が浮かぶはずだ。
そう自問自答して、はっと思いつく。
「あ、そうだ。壁際を沿っていけば、目瞑ったままでも湯船から出れるんじゃね?」
思い付いた案を言ってみる。これは結構名案かもしれない。
ずっと壁を伝っていけば、彼女の方に顔を目を向ける必要もないし、壁に手を添えておけば転ぶ心配もないだろう。
「危なくない?」
「いや、多分大丈夫」
「おとーさん、はやくこうたーい」
「わかったわかった。待ってろ、すぐに出るからな」
一応は心配してくれるおかーさんと、慈悲のない娘。
とりあえず壁に手を添えて、ざぱっと立ち上がってみる。色んな意味で逆上せてしまったので、立ち上がった反動でくらりとした。
「ひゃっ」
俺が立ち上がったと同時に、弥織が小さな悲鳴を上げた。
「え? 俺壁際向いてるよな?」
「依紗樹くん、タオル! タオルが!」
「え? あ!」
腰のあたりがすーすーする。
今立った反動で、腰に巻いていたタオルが落ちてしまったらしい。という事は、今俺はケツを丸出しにして弥織に向けていて、尚且つフルチン状態……
──待って、待って! 死ぬ程恥ずかしいんだけど!
慌てて屈んでタオルを探すが、どこにいったのか全然わからない。
というか、目を瞑ったまま好きな女の子にケツ見られてフルチン状態とか恥ずかし過ぎて死ねる。
でも、ちょっとだけ興奮してきた。なにこれ、何か別の性癖に目覚めそう。
「ちょ、ちょっと! 変な体勢で動き回らないで! 私が見えちゃうから!」
「そんな事言ったってな! タオルが見つからないんだよ!」
「タオルなら取るから、じっとしてて!」
弥織の言葉に、ぴたっと身体が停まる。
「えっと……もしかして、タオル腰に巻いてくれるの?」
「ち、違うからッ! 取るだけ! そんなの、恥ずかし過ぎて無理!」
お互いに恥ずかし過ぎて死にそうになっていた。
交渉の結果、俺はケツを弥織に向けて立ったまま、彼女がタオルを取って持たせてくれる事で同意を得た。
弥織の口からは「なんでこんな事してるの、私……」という絶望にも似た想いが漏れていた。
俺だって、何が悲しくって好きな女の子にケツ向けてフルチンで壁に向かって立っていなきゃいけないんだ。情けないにも程がある。
弥織が湯船の中からタオルを見つけて、外に取り出す。その際に、湯船の中のお湯がじゃばっと揺れた。ほんのすぐ近くに彼女の手があったのかと思うと、それだけでドキドキする。
それからタオルを絞る音が聞こえてから、ぱんぱんと叩く音が聞こえた。わざわざ水気を取ってくれたらしい。
──俺のイチモツを包んでいたタオルを弥織が絞って……とか考えるなよ、絶対考えるなよ、俺。
もう手遅れな気はするけども、必死に自分にそう訴えかける。
「じゃあ、渡すよ?」
「お、おう」
俺が手を後ろに出すと、弥織からそっとタオルが託される。その際に彼女の手と俺の手が触れて、心臓が跳ね上がった。
なんだろう、昼間に彼女と手を繋いだはずなのに、今彼女がバスタオル一枚だと思うと、それだけで全く感覚が異なる。手が濡れている事も大きな意味合いがあるのだろうか。
なんとか冷静さを保ちつつ、腰にタオルを巻き直す。目を瞑ったままでは、これも一苦労だ。
タオルも無事巻き直して、さあ出発だ。お風呂の壁際を沿った移動が、これから始まる。
タオルが落ちない様に手で押さえつつ、もう片方の手で壁の位置を確認して移動開始。
「足、滑らせないように気をつけてね」
「ああ。ありがとう」
横歩きをしながら、足だけ上げて湯船からまずは右足を出す。
「おとーさん、かにさんみたい!」
俺の気も知らないで、珠理がきゃっきゃと楽しそうに笑う。
確かにこうした横歩きは、さぞかし蟹みたいに見えて滑稽だろう。だが、こっちはこっちで必死だ。床はつるつる滑るし、下手をすれば転んで頭を打って死ぬ事も有り得る。
俺は慎重に左足も湯船から引き抜くと、扉の前で待機した。
「よし、今のうちに二人は入ってくれ」
俺の言葉と共に、弥織と珠理が湯船にちゃぷんと入る。
弥織の安堵した息とともに、「おかーさん、かえるさんであそぼー」という無邪気な珠理の声が聞こえてきた。全く、いい気なものだ。
さて、弥織が湯船の中に入ってある程度身を隠せている状況でひと安心……と思いきや、ここで新たな問題が発生した。
──目を瞑ったままバスチェアを探して座るの困難過ぎないか?
どこにあるのか見当もつかなかった。毎日使っている風呂なのに、目を瞑ったままだと距離感も全くわからない上に、滑りそうで怖い。
とりあえず四つん這いになって移動し、バスチェアを探してみる。すると、右手にバスチェアらしきプラスチックの感触があったので、それを手繰り寄せて座った。
今度こそひと安心──と思いきや、新たな問題が発生する。
──どこにシャンプーがあるかなんて覚えてすらいないんだけど?
そう、今自分が風呂場のどのあたりに座っていて、シャンプーやらの容器までどのくらい距離があるのかわからない。
しかも、弥織が入ってくる前に身体は既に洗ってあるので、使うのはシャンプーとリンスだけだ。間違えてボディーソープを頭に塗ってしまったら大変だし、シャンプーとリンスの順番を間違えても意味が無い。
──え、待って。これ結構難易度高くない?
とりあえず手を伸ばすと、何かの容器っぽいものが手に当たったので、それを掴んでみる。
が……つるっと手から滑り落ちて、その直後に俺の足に激痛が走った。
「のおおおおああああああああ!」
どうやら俺の足に直撃したらしい。弁慶ですら泣いてしまう痛みだった。絶対に泣く。だって、小指だぞ。泣く所は脛だけじゃない。
「だ、大丈夫⁉」
「だ、だ、大丈夫……大丈夫だ」
完全な強がりである。
全然大丈夫じゃなかった。今も右の足がじんじんしている。
「手、出して」
すると、弥織から唐突な指令が出た
「え?」
「手に出してあげるから。それなら、目閉じたままでも問題ないでしょ?」
「あ、確かに」
そのまま右手を出していると、弥織がシャンプーをプッシュして俺の手のひらにねばっけのある液体が乗った。
「これくらいでいい?」
「ああ、十分だ」
それから俺は、二人が湯船の中で遊んでる声を聞きながら、髪を洗った。
何でこんなに風呂入るのに苦労しなきゃいけないんだろう?
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