第63話

 珠理には「おかーさんもすぐ来るから」と言って聞かせ、二人で先に浴室に入った。

 いつもは珠理から洗ってやるのだが、今日は自分だけささっと身体を洗い、急いで湯船に浸かる。

 ちょうどそのタイミングで外から「は、入るよ?」と弥織のやや緊張した声が聞こえてきたので、「いいよ」と答えてから目を閉じた。

 俺の視界は真っ黒になった瞬間、がらっと浴室の扉が開く。


 ──う、うおおお。なんだこれは⁉ ただ引き戸が開いただけの音なのにめちゃくちゃえっちな感じがするんだが⁉


 聴覚だけが異様に発達してしまった生物になった気分だ。音だけで映像が見えてくる。


「えと……お邪魔します」


 弥織の控えめな声と、ぴちゃりと彼女の足音が水音と混ざって聞こえてくる。

 もうこれだけでえっちだ。きっと今、彼女の白い肌と俺の家の浴室が触れ合っている。こんな事が許されてもいいのだろうか。いやだめだ!

 とは言え、弥織には身体を包む様のバスタオルを既に渡してある。俺がよく使っている一番大きなサイズのバスタオルなので、彼女の身体も腰まで覆い隠せ──


 ──待て待て待て! 俺が普段使ってるバスタオルじゃないか! 俺は次からそのバスタオルをどんな顔して使えばいいんだ⁉ これは弥織の色んなところを包んでいたタオルとか、そんな事を考えてしまうに違いないじゃないか! 


 心臓に悪い。もはや家宝にして金庫にでも入れて封印しておいた方が良いのかもしれない。

 というか、バスタオルで身体を覆っているなら、別に目を開けても良いのではないだろうか。露出面積で言うと、水着とか下着の方が多い。

 だが、目は閉じていると約束してしまった……男ならば、約束は守るべきだろう。


「おかーさん、はい。シャワー!」

「う、うん」


 しゃー、とシャワーからお湯が出てくる音が聞こえてくる。

 シャワー音と女の子の組み合わせとはどうしてこうもえっちに思えてくるのだろうか。不思議だ。


「あたまあらって~」

「いいよ。じゃあ、目はちゃんと閉じててね」

「はい、閉じてます」


 反射的に俺が答えてしまった。


「今の、珠理ちゃんに言ったんだけど……?」

「え⁉」


 目を閉じているのに、弥織がジト目でこちらを見ているのが何故かわかる。

 俺は心眼にでも目覚めてしまったのだろうか。


「ほんとに目、閉じてるんだよね……?」

「閉じてる、閉じてますって!」


 弥織が小さく息を吐いて、そのままシャワーで珠理の頭へとお湯を掛けていく。


「お湯、熱くない?」

「うん、あつくないー」

「おかーさんが普段使ってるシャンプー持ってきたから、今日はそれで髪洗おっか」

「おかーさんのシャンプー! やったー」


 そんな会話が成された後に、シャワーの蛇口がきゅっと止められる音がしてから、シャンプーを泡立てる音が聞こえてくる。

 しゃかしゃかしゃか、と気持ち良さそうだ。どうして人がシャワーしてもらっている音ってこうも気持ち良さそうに聞こえるのだろう。目を閉じているだけに、そんな普段は考えない事ばかり考えてしまう。


「かゆいところはないですかー?」


 弥織が美容師の様に訊く。


「てっぺんー」


 珠理がそれに応える。


「ここ?」

「うん、そこー!」


 しゃかしゃかしゃか、と弥織が珠理の頭を洗う(音が聞こえてくるだけである)。

 なんだろう、風呂場でずっと目を閉じているのってかなり苦行だ。これならむしろ目隠しでもしてくれた方がまだ楽なのだが、変に目隠しなんてすると、珠理に突っ込まれた時に言い訳ができない。

 背中の方から、大量のお湯が掛けられる音がして、珠理がきゃっきゃ言っている。シャンプーを洗い流したのだろう。


「じゃあ、次はトリートメントつけるね」

「とりーとめんとー! って、なに?」


 素朴な疑問を珠理が訊く。

 確かに、リンスとコンディショナーとトリートメントって男子的にはどう違うのか説明できないよな。何となくトリートメントが最上級のヘアケア、というイメージだ。


「えっとね、髪をサラサラにするの」


 弥織さん、まさかのめちゃくちゃあっさりとした答えで乗り切った。まあ、詳しく説明してもわからないだろうから、これくらいの方が判り易くて良いのかもしれない。


「とっても良い匂いがするんだよ?」

「おかーさんとおなじ?」

「うん、もちろん」

「おかーさんとおなじにおい、うれしい!」


 シャンプーの音とは違ってちょっとしっとりした水音が静かな浴室に響く。その水音が、何故だかえっちなものに聞こえてくるから不思議だ。

 今度はトリートメントを流すシャワー音が聞こえてくる。


「はい、終わったよ」

「おかーさん、ありがとー! おれいに、おかーさんのあらうー!」

「え、私? 私の髪は長いし大変だから……あ、じゃあ背中お願いしようかな?」

「うん、わかったー! おせなかー!」


 確かに、弥織の髪は腰まであって長い上に、手入れが行き届いている。

 きっと、毎日丁寧に手入れして、努力を怠っていないのだろう。扱いが慣れていない珠理が変に洗っては、からまってしまう可能性もある。そのあたりをはっきり言わずに別の場所に誘導しているあたり、弥織のおかーさんっぷりには本当に感服だ。


「おかーさん、おせなか洗えないから、タオルとって」

「……え?」


 立派なおかーさんの声から、一気に困惑した少女の声へとなる。

 弥織のこのギャップを知っているのって、きっと俺だけなんだろうなぁ……。


 ──って待て待て! タオル取るの⁉ それはまずくない⁉


 珠理、グッジョブだ! と声高々に叫びたいが、そんな事を言おうものならきっと桶が飛んでくるだろう。


「おかーさん、タオルじゃまー」

「え、あ、ううう~……」


 めちゃくちゃ唸っている。

 そしてめちゃくちゃ俺の背中に視線を感じる。俺が目を開けていないか、心配で心配で堪らないといった様子だろうか。


「じゃあ……お願い、します」


 渋々といった様子で、弥織が言う。

 そのお願いは、珠理に背中を洗ってという意味のお願いなのか、俺に目を開けるなというお願いなのか、どちらかを考えてやり過ごそう……そう考えていたのだけれども、するりとタオルが取られる音が耳に入った瞬間、俺の脳は一気にショートした。

 今この瞬間、弥織は一切の布を身に纏っていない。謂わば、生まれたままの姿だ。

 そして、今俺が開眼して後ろを振り向けば──弥織の全てを見られる。

 見たい。死ぬ程見たい。

 男の約束を採るか、それとも男の欲望を採るか……俺は今、人生の岐路に立たされているのではないだろうか。


 ──さあ、真田依紗樹。開眼だ。男として開眼するのだ。

 ──いや、真田依紗樹よ。惚れた女との約束を守るのが、男なのではないか?


 そんな俺の中の天使と悪魔が戦いを繰り広げている。


「……見ないって、約束したよね?」


 弥織の泣きそうな声がこちらに投げかけられる。


「わかってる、見ないってば!」


 俺の中の悪魔、この瞬間に敗北。どちらかというと、弥織にやられた気がするのだけれど。


「ごしごし~」


 珠理が機嫌良さそうに歌うと共に、ごしごしと優しく肌をタオルで擦る音が聞こえてくる。


「珠理ちゃん、上手だね」

「ほんとー? じゃあ、前もあらうー」

「え、ちょ──」


 ……なんですと?

 珠理、君はいつからそんな良い仕事をする様になったんだ?


「前は自分で洗──きゃっ! そこ、違うからッ」

「おかーさんおはだすべすべでやわらかい~!」

「だめ、珠理ちゃんそこは──ひゃうッ! ほんと、やめて! そこくすぐったいからダメだってばぁッ」


 弥織の口から、聞いた事もない様な艶っぽい声が漏れる。もうそれだけで俺の色んなところが疼いてしまって大変な状態だ。

 おい、珠理。どこを洗ってるんだ。どこを洗っているのか、教えてくれ。俺の妄想で完結しようとすると、大変な事になってしまう。沈めさせてくれ。頼むから。このままではタオルでは隠せない状態になってしまう。


「えへへ~。ごしごし~」

「もう、珠理ちゃんってばぁッ」


 それから数分もの間、弥織と珠理の戦い、そして俺の煩悩との戦いは続いたのだった。

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