第62話
弥織が今日泊ると知った時の珠理のテンションの高さといったらなかった。
なんだか珠理は弥織がいるだけで毎日が楽しそうだ。この様子からでも、さっき珠理が言っていた『自分にはおかーさんがいるから寂しくない』という言葉が嘘ではない事がよくわかる。
彼女は俺にはお母さんがいないから寂しいのではないか、と心配していた様だが、それは杞憂というものだ。
もしかすると先月までの俺の中には、そういった気持ちもあったのかもしれない。だが、今では全くそういった不都合さは感じなかった。弥織と珠理がいてくれるだけで、全然寂しさなんて感じるはずがない。
ただ、一つだけ残念な事があるとすれば──
──今のこの光景を、母さんがどんな顔をして見ているのかを見れない事、かな。
俺が学校で特別親しくしている女の子がうちに来て、お菓子を作ってきてくれて、ずっと珠理と遊んでくれていて……もし母さんが生きていれば、この光景をどう思うだろうか。
穏やかに微笑んで眺めていただろうか。それとも、少し弥織にやきもちを妬いたのだろうか。
それを確認する術は、もうない。
だが、きっと──それはそれで、胸があたたかくなるような光景だったのだろうな、と思えるのだった。
それから三人で近所のスーパーに行って夕飯の食材を買い、弥織による手料理が振舞われた。
今日は珠理のリクエストでチーズハンバーグだった。味付けが絶妙なのか、ハンバーグもジューシーでとても美味しかった。こんなに美味しい手料理を毎食食べていたら、ぶくぶく太ってしまいそうだ。
夕食後、珠理は弥織の持ってきたクマのぬいぐるみで、彼女と一緒に遊んでいた。二匹の色違いのクマのぬいぐるみが二人の手元て何やら色々話している。俺はそんな二人のやり取りを、皿洗いをしながら耳を傾けるのだった。
お皿洗うよ、と弥織はいつも言ってくれるのだが、さすがに料理を作ってもらって皿洗いまでさせるのは申し訳ない。こういった後処理は俺の担当だ。というより、その少しの間でも弥織には珠理と遊んでいて欲しい。
食器を洗い終わったタイミングで、お風呂の自動お湯はり機が電子音を鳴らした。風呂が沸いた合図だ。
「あ、弥織」
「なあに?」
二人がぬいぐるみでわちゃわちゃしていた手を止めてこちらを見上げた。
「風呂沸いたけど、せっかくだし今日は珠理と一緒に──」
「わぁ、おかーさんとおふろー!」
入ったらどうだ、と弥織に訊く前に、珠理により未来が確定されてしまった。
「……って事なんだけど、いいか?」
「うん、もちろん」
弥織はくすっと笑って答えた。
「っていうか、珠理ちゃんもうその気だし」
珠理を見ると、にこにこして弥織に抱き着いていた。
この笑顔の前では、さすがに嫌とは言えないだろう。
「おかーさんとおふろー」
「うん、そうだね。一緒に入ろうね」
なんだかんだ言って、もともと弥織もその気だったのだろう。嬉しそうだ。
「おとーさんもいっしょに!」
「ああ、そうだな、俺も一緒に──」
そこまで言って、言葉を詰まらせる。
おとーさんもいっしょ? あれ、さっきおかーさんと一緒に入るって言ってたよな? それに、おとーさんも一緒って言ってなかったか、今?
「「……え⁉」」
言葉の意味を理解して、俺と弥織が同時に
「ま、待て珠理。俺も一緒に入るって事なのか?」
「ん」
相変わらず満面の笑みで頷く珠理。
「い、いや、それは、さすがに……」
ちらりと弥織を見ると、彼女は顔を真っ赤にして首をこれでもかというくらい横に振る。
いや、そうですよね。普通に考えて。
「あのな、珠理。うちの風呂はせいぜいは入れても二人だ。三人はさすがに──」
「やーだー。だって、おとーさんといつもいっしょにおふろ入ってるもん!」
俺の言う事なんて聞きやしない、完全な駄々っ子モードの珠理が発動した。
普段俺が〝おにーちゃん〟の時は殆ど我儘を言わないのに、〝おとーさん〟の時は我儘になる。こういう時に、珠理にも色々我慢させていたんだな、と改めて実感させられるのだった。
それにしても、今回だけは色々まずい。駄々っ子どうのの問題ではなくて。
「おとーさんだけ仲間外れやだー!」
珠理、徹底抗議の構え。これは全く引く気がなさそうだ。
ただ、俺は毎日珠理とお風呂に入っている。そういった面から見ても、俺がいないというのは珠理的には嫌なのかもしれない。
もう一度弥織をちらりと見てみる。
「えぇぇぇ……」
学校一の美少女にしておかーさん、完全に泣きそうである。
「おとーさんもはいろ? ……いや?」
珠理は俺と弥織の何とも言えない気まずいやり取りを見て、涙目で弥織に訊いた。
いやいやいや……弥織が泊りに来るってだけでも重大的過ぎる問題なのに、さらに一緒にお風呂って!
さすがに無理があるだろう、無理が。
本音? そんなの、入りたいに決まっている。同級生の女の子と一緒にお風呂──しかも、それがあの伊宮弥織──だなんて、俺の人生でここを逃すと一生ない気がする。
むしろこれは、珠理に乗っかってゴリ押してしまうべきではないだろうか。俺の人生の栄光を掴む為に。
よし、弥織には悪いがここは珠理の味方をしよう。なに、これはおとーさんとしての責務だ。決して下心ではない。
そう思って加勢しようと思っていると──
「ううん……嫌じゃ、ないよ?」
弥織がおずおずと言うと、困り顔で笑った。頬は真っ赤だけども。
「……え?」
え?
言葉と共に、心の中でも疑問符が浮かぶ。
嫌じゃない? 嫌じゃないってどういう事? いや、それってつまり、そういう事ですか⁉
お泊りの時と同様、いざ実現すると驚きを隠せない俺である。
「おとーさんだけ仲間外れじゃ可哀想だもんね」
「うん! おとーさんもいっしょ!」
弥織の言葉に、珠理が太陽の様に輝かしい笑顔を見せた。
「じゃあ珠理ちゃん、先にお風呂まで行っててくれる?」
「うん!」
珠理は元気よく頷いて、とてとてとお風呂場に走って行く。
居間には俺と弥織だけが残っていた。とんでもなく気まずい空気と共に。
「あー……えっと。マジで? ほんとに良いの?」
「全然良くないよ……」
弥織は頭を抱えてその場でしゃがみこんでしまった。
「初めて男の子のお家にお泊まりするってだけでも緊張してるのに、一緒にお風呂なんて……考えた事もないし考えただけで死んじゃいそう……」
なんだかとても可哀想な状態になっていた。むしろ俺が仲間外れになるよりも弥織の方が可哀想な気がする。
「でも、珠理ちゃんのお願いだし……」
それに、と間に挟んでから弥織は続けた。
「家族でお風呂に入りたかったっていう気持ち、わからなくもないから」
そこには切ない響きがあった。
きっと、弥織も過去に家族でお風呂であったり、家族であれこれ、といった色んな家族にまつわる事に憧れ、そして諦めた経験があるのだろう。だからこそ、恥ずかしい思いをしてでも珠理の願いを叶えたいと思うのだ。
「あ、えっと……見ないから。湯船に入って背中向けてるし、二人が出るまで目ぇ瞑ってる」
そんな弥織を見てしまったら、こう言わざるを得ない。
例えそれがどれほど自分の本心とかけ離れていたとしても、心にも思っていないとしても、そう言わざるをえない。
男とは、なんと悲しい生き物なのだろうか。
「ほんと……?」
おそるおそる、涙目になっている瞳でこちらを見てくる。
俺は何度もこくこくと頷いて見せた。全く本心ではないけれど。
「おかーーさーん。はやくー!」
お風呂場から珠理の急かす声が聞こえてきた。
もう迷っている時間すらない様だ。
「うん、今いくよー」
弥織はお風呂場に向かって声を少し張り上げ、珠理の言葉に応える。
そして立ち上がると、胸に手を当てて深呼吸を何度かしていた。
「じゃあ……お風呂、行こっか」
そして、覚悟を決めてこちらを見る。
それはまるで、今から闘技場に向かう
「ああ、行くぞ」
どうしてかこちらも変な覚悟をしてしまう。
一体俺は何の覚悟をしたのだろうか。
「あのね、依紗樹くん」
お風呂場に向かおうとした時、弥織が立ち止まって後ろの俺をちらりと見る。
「……信じてるから」
泣きそうな顔でそう言うと、彼女は風呂場へと向かって行くのだった。
「はい……」
誰もいなくなった居間で、俺はそう返事をする。
そんな風に言われたら、その信用に応えるしかない。死ぬ程不本意だけど。いや、本当に。
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