第60話

 それから三十分と少し経った頃だった。

 弥織から呼び出しの連絡があり、下に降りた。

 居間では、弥織が柔らかく微笑んでいて、珠理は下を向いてもじもじしている。


 ──あれ、思ったより険悪じゃないな。


 弥織と珠理の間で、どんな会話が交わされたのかはわからない。

 ただ、弥織が笑っているという事は、そんなに悪い事態でもなかった、という事だろうか。


「ほら、珠理ちゃん。ちゃんとおとーさん……ううん、お兄ちゃんに話さないと、伝わらないよ?」


 弥織はそう言って、珠理の背中をそっと押した。

 敢えて『お兄ちゃん』と言い直した事に、何か意味があるのだろうか。

 珠理は言葉にしにくそうに相変わらずもじもじしていて、何か言いたそうにしている。

 俺は屈んで珠理と視線を合わせた。


「どうした? 言いたい事があるなら何でも言っていいぞ。もう怒鳴ったりしないから」


 できるだけ笑い掛けてみせて、そう言う。

 言ってから、怒鳴るという言葉は難しかったかなと思ったが、何となくニュアンスで伝わるだろう。


「あのね……?」


 珠理は俺の方をちらちら見ては俯いて、言い難そうにしている。


「どうした?」


 言葉が詰まったので、首を傾げてみせる。

 妹が弥織を不安げに見上げると、彼女は「大丈夫だよ」と優しく言って聞かせる。


「あのね……おにーちゃんが、さびしいとおもった」

「ん? どういう事だ?」


 言っている事がよくわからず、首を傾げる。


「シュリはね、おかーさんいるからさびしくないけど」


 珠理は一度区切ってから、迷いながら言葉を紡いだ。


「おにーちゃんにはお母さんがいないから、さびしいと思った」

「え?」


 それから、珠理はたどたどしい言葉でゆっくり説明してくれた。

 珠理が言葉に詰まれば弥織が補足して、意味を繋げてくれた。

 曰く、珠理が母さんの話を持ち出したのは、弥織の〝おかーさん〟が不満だったからではなかった。むしろ、逆だったのだ。

 自分には弥織という〝おかーさん〟がいるから寂しくない。十分過ぎる程満たされている。でも、兄の俺には〝お母さん〟がいない。ずっと自分の相手をしていて、寂しいのではないか、お兄ちゃんもお母さんが本当は恋しいのではないか。

 珠理は、幼いながらにそんな事を考えて、俺を心配してくれていたのだった。

 それで、まずは俺から母さんの事を聞いて、その寂しさを何とか和らげる方法を考えようとしてくれていたのである。お母さんの写真や話をすれば、寂しさを紛らわせるのではないかと子供ながらに思い至ったのだろう。

 珠理が言った言葉は、今の三人への不満や、弥織への不満ではなかった。むしろ、全て俺への心配や配慮から来るものだったのだ。


「そんな……珠理、お前……」


 心の隅まで、自責の念が行き渡っていく。

 少しでも珠理に対して怒ってしまった事を死ぬほど恥ずかしく思った。なんと愚かだったんだろうと、自分には怒りと呆れ以外何も浮かんでこなかった。


「言ったでしょ? 珠理ちゃんが、依紗樹くんを傷付ける様な事言うはずないって」


 弥織は嫣然えんぜんとしてそう言った。

 全て、彼女の言った通りだったのだ。

 五歳児故に、珠理はただ言葉を上手く使えなかっただけだ。使う言葉が間違っていて、ただこちらが誤解をしていただけだったのである。

 彼女の気持ちはただ一つ。俺の事を心配してくれていただけだったのだ。


「珠理、ごめん……ごめん!」


 珠理の小さな身体を抱き締めて、必死に謝った。

 俺は大馬鹿野郎だ。

 五歳児だから、何もわかっていないと思っていた。俺がどれだけ苦労していて、どれだけ自分の時間を削っていて、どれだけ楽しみを我慢してきたかなど、わかるはずがないと思っていた。

 確かに、その全てを理解はしていないだろう。五歳児なのだから、できるはずがない。

 でも、珠理は感覚ではわかっていたのだ。自分の為に俺が色々している事を、そしてそれに対して、有り難いと思ってくれていたのである。

 でなければ、きっとこんな心配などしてくれない。


「おにーちゃん……」

「なんだ?」


 自責の念に苛まれる俺に、珠理が呼び掛ける。

 俺はそっと身体を離して妹を見つめた。


「おかーさんつれてきてくれて、ありがとう。いつも色んなものがまんしてシュリと遊んでくれて、ありがとう」

「珠理……」


 いきなりの妹からの御礼に、胸がぐわっと熱くなって、瞼の裏に熱が篭もる。


「ナツミちゃんにもね、ちゃんとおにーちゃんにありがとうって言わなきゃだめって、きょう言われた。いつもおにーちゃんはシュリのためにがんばってくれてるから、おれいしなきゃ……ダメって」

「木島さんがそんな事を……」


 木島先生も木島先生で、しっかりと今日珠理と話してくれていたのだ。

 何が一人だ。何が俺一人で珠理の面倒を見ているだ。

 弥織だけでなく、木島先生にもこんなにも助けられているじゃないか。

 自分の思い上がりぶりに、反吐が出た。


「あのね、おにーちゃん……」


 珠理が俯いたまま、肩を震わせた。

 どうしたんだろうと思って、俺はそっと彼女の顔を覗き込む。


「おにーちゃん……もう、怒ってない?」


 彼女は不安そうな顔をして、泣きそうになっていた。その大きな瞳いっぱいに涙を溜めていて、今にも雫を零さん勢いだ。

 その涙を見た瞬間に、悟ってしまった。

 どうして珠理が昨日から俺を避けていたのか。どうして口を利かずにこちらを見ようともしなかったのか。

 彼女は……不安だったのだ。

 たったひとりの家族の俺から嫌われたのではないか、怒らせてしまったのではないかと不安で、それを確かめる事すらできなかったのだ。

 それも当然だ。弥織だって〝おかーさん〟と言えども、元は俺の繋がりだ。その俺から嫌われたとなれば、自分とも繋がりが切れると考えても不思議ではないだろう。

 大人げない俺が歩み寄ってやらなかったが為に、彼女はとてつもない孤独感に襲われていたのだ。それこそ……弥織が過去に味わったかの様な孤独感と近いものなのかもしれない。


「ああ、怒ってない。怒ってるはずが、ないじゃないか……!」


 そう言うと、珠理が涙をぼろぼろ零しながら、俺の首にがしっと抱き付いていた。

 それからは、大号泣だった。こんなに珠理が大声で泣いた事など、もっと小さい頃、泣くのが仕事だった頃以来じゃないだろうか。そう思える程、彼女はわんわん泣いていた。

 俺はその小さな身体を抱き締めながら、何度も何度もその頭を撫でていた。

 本当の血縁関係がある俺が信じていなくて、〝おかーさん〟を演じている弥織の方が彼女を理解しているなんて、もう兄貴も〝おとーさん〟も失格ではないか。


「お兄ちゃん、バカでごめんな……ごめんな……!」


 気付けば俺の頬にも涙が伝っていた。こんな小さな子をこれだけ不安にさせてしまうなんて、どれほど愚かな兄だったのだろうか。

 俺はただただ謝る事しかできなかった。

 それを見ていた弥織も貰い泣きしてしまったのだろう。彼女も屈んで俺と珠理を両腕で抱きかかえると、一緒にわんわん泣いていた。弥織に至っては、さっきも水族館で散々泣いた後なのに、またか、と思わざるを得ない。

「何でお前まで泣くんだよ」と言ってやると、「泣くよ。私だって、もう家族だもん」と怒られてしまった。全く理由の説明にはなっていなかったが、その言葉が今の俺にとっては何よりも嬉しかった。

 ゴールデンウイーク初日の昼下がりから、仮初めの父と仮初めの母と、そしてその子が三人身を寄せ合ってわんわん泣いている。きっと、他所から見たら何事かと思うだろう。こんな御飯事で三人揃って泣くなど、バカバカしいにも程がある。

 確かに、他人から見たら御飯事かもしれない。バカバカしいかもしれない。俺と珠理は兄妹で、俺と弥織はクラスメイトで、珠理と弥織は赤の他人だ。

 でも、この瞬間の俺達は、きっと本当の親子にも負けないくらい、親子だと思えた。


 ──なあ、母さん。妹って……家族って、いいよな。


 今は亡き母を思い浮かべて、そう呼び掛ける。

 母さんが死んでから、苦労ばかりだった。我慢に次ぐ我慢。自分の夢とか目標とかは一切消えて、母さんの死の整理がつく前に、いきなり妹が生活の中心になってしまった。

 確かに母さんがいないのは、寂しいし悲しい。その悲しみには、親父と同じく俺も未だに向き合えていない。

 でも、この時──母さんが残してくれた、この珠理という存在に、俺はどうしてか救われた気になった。いや、母さんの死の悲しみから俺を救ってくれていたのは、きっと珠理だったのだ。彼女は存在しているだけで、俺を救ってくれていたのである。

 そして、俺は心の中で、こう呟いた。


 ──母さん。珠理の事、産んでくれてありがとう。こいつの事、しっかり守るから。だから、ちゃんと母さんも、見守っててくれ。


 もちろん、母さんは答えてなどくれない。もう彼女はこの世に存在しないのだから。

 それでも俺は、彼女が今も傍で見守ってくれていると信じたかった。

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