第59話
弥織が来たのは、俺達が昼飯を食べ終えた一時間後だった。
弥織の来訪を告げるインターフォンの音に安堵したのは、きっと俺も珠理も同じだっただろう。
「おかーさん!」
弥織が居間に姿を見せると、珠理はまるで救世主を見つけたかのごとく走って行って、彼女のお腹に抱き付いた。
「お待たせ、珠理ちゃん。今日はお迎えいけなくてごめんね?」
弥織は珠理の頭を撫でながら、ちらりと俺を見る。
『仲直りはできたのか』という様な意図だろう。俺は肩を竦めてから、首を横に振る。すると、弥織は『わかった』とでも言いたげに、同じく肩を竦めて呆れた様な笑みを浮かべるのだった。
「ねえ、珠理ちゃん。今日はね、おかーさん家でマカロン作ってきたの」
言いながら、彼女は紙袋から、透明のビニールに入ったマカロンを取り出した。
可愛い柄のビニール袋で、結び目にリボンがついている。
「おかーさんのマカロン⁉ 食べたい!」
マカロンを見て、珠理が瞳を輝かせた。
さっきまで葬式の様に暗かった家の中が、弥織が来るだけで明るい声に満ちている。珠理が弥織の〝おかーさん〟についてどう思っているのかわからないけれど、やはり彼女以上の〝おかーさん〟など、本物でもなかなかいないのではないかな、と思うのだ。
俺自身、こうして弥織が来てくれて部屋の空気が明るくなった事で、心の底から安堵していた。もう彼女なしでは成り立たないのではないかと思う程には。
「あとねー、この前言ってたクマさんも持ってきたよ? これで私とお揃いだねっ」
弥織はいつもより少し大きな鞄の中から、ラッピング袋を取り出した。これまた可愛い柄とリボンがついていて、プレゼントの様だ。
こうして、ただお菓子をあげる、プレゼントを持って来るというだけではなく、入れ物にも拘っているあたり、彼女は実に子供の喜ばせ方を知っていると思うのだった。
彼女が何を上げるか、というのは事前にもうわかっている。しかし、そのプレゼントという結果だけでなく、取り出すワクワク感を演出し、過程を楽しませようと言うのである。弥織は弥織なりに、本当に珠理の事を考えてくれているのが伝わってきて、俺も頬が緩む。
「おそろいのクマさん!」
「うん、後で一緒に遊ぼうね。でも──」
弥織は一旦言葉を区切って、床に膝を突いて珠理と視線を合わせてから続けた。
「その前に、する事あるよね?」
そして、優しく微笑み掛ける。
叱るのではなく、諭す。これほどこの表現が正しく当てはまる光景は滅多にないな、と感心した。
一方の珠理は、さっきまで明るかった表情が沈んでしょぼんとなってしまう。
「おとーさんと珠理ちゃんが喧嘩したままだと、私も楽しく遊べないなー。それに、せっかくのマカロンも美味しくなくなっちゃうよ?」
弥織は俺の方に笑みを向けて言う。
全く、本当に。呆れてしまう程、しっかりと〝おかーさん〟をしていた。
それに、弥織のこういったやり口は……なんだか俺の記憶の片隅に引っかかるものがあった。
『誰がこのジュースこぼしたのかなー? ほったらかしでどこかいっちゃうとか、ママ悲しいなー』
俺が珠理よりも小さい頃。ジュースを零してしまって、叱られると思って内緒にしたまま部屋から逃げてしまった事がある。
その時に母さんは確か、こんな感じで俺を咎めた。怒鳴ったり叱ったりするのではなく、『悲しい』と言われた事で、俺は小さいながらにとんでもない罪悪感を持って、すぐにごめんなさいと名乗り出たのだった。
弥織がやっている事は、まるでそれと同じだ。
──母さんが弥織に憑依してるとかじゃないだろうな?
それはちょっと勘弁してほしい。もし憑依されていたら、母さんと水族館に行って、手を繋いで喜んでいる事になってしまう。どんな変態だ。
珠理はと言うと、俺をちらりと見ては弥織の背中に隠れられてしまった。どうやら俺には言い難いらしい。
「……おとーさんに直接言うのは難しい?」
弥織の問いに、珠理が「うん」と頷く。
相変わらず俯いたままだ。
「じゃあ、おかーさんになら話せる?」
〝おかーさん〟がもう一度訪ねると、珠理はもう一度頷いた。
「と、いうわけだから……」
弥織が立ち上がって、申し訳なさそうに眉を下げた。
「ああ、了解。二階にいるから、呼んで」
「うん、ごめんね。LIME送るから」
もう一度「了解」と言うと、俺はスマートフォンだけ持って、居間を出た。居間を出る際、珠理が不安そうに俺を見ていたのが印象的だった。
二階の自分の部屋に入ると、俺はいつぶりだというくらい久々に、自分のベッドに寝転がった。
寝転がりながら、窓の外に目を向ける。
春空はこれでもかというくらい晴れ渡っていて、外で遊んでも気持ち良さそうだった。
スマホを開いてみると、信也とスモモから『デートか?』とそれぞれ連絡が入っていた。二人揃って今日は学校を休んでいるのでそう推測されても仕方ない。それに、実際水族館に行ったのは事実だったわけで。デートと言っても差し支えないのかもしれない。
その後に『ゴールデンウイークいつ行けばいい?』と連絡が入っていた。
──あー、そういえばゴールデンウイークこいつらに珠理を紹介するって言ってたんだっけか。
なんだか色々それどころではなくなってしまっていて、すっかり忘れてしまっていた。
『また連絡する』
俺はそうとだけ返事して、スマホを枕の横に投げ捨てた。
実際どうなるのかわからない。今は弥織が珠理の話を聞いてくれているだろうが、それ次第では紹介どころではなくなってしまう可能性があった。
ふと、クローゼットへと視線がいった。
母さんのアルバムを仕舞ってあるクローゼットだ。クローゼットの上の物置部分の段ボールの中に、そのアルバムは隠してある。
先程何となく母さんとのやり取りを思い出してしまったせいか、そのアルバムが無性に見たくなった。
俺は立ち上がって、クローゼットの引き戸を引いて、上に手を伸ばす。
──……何やってんだろな。アホらし。
溜め息を吐き、伸ばし掛けた手を引っ込めて、クローゼットを閉める。
結局手持無沙汰になって、ベッドに寝転がって空を眺めるくらいしか、やる事がなかった。
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