第58話
その後、最寄駅まで戻った俺達は、そこで別れた。弥織はそのまま家へ一旦戻り、俺は保育園へと直行する。
憂鬱じゃないかと訊かれれば、かなり憂鬱だった。
正直に言うと、俺は弥織ほど珠理の事を信用しているわけではなかった。
いくら肉親と言えども、珠理はまだ五歳児だ。〝御飯事〟に付き合う俺達に対してそこまでの配慮ができるとも思えなかった。俺が傷つくとか、弥織が傷つくとか、そこまで考えて発言できる五歳児などいるはずがない。
それに、〝おかーさん〟を知る事で本当の母親について知りたいと思う事もあるだろう。それはまるで、弥織の〝おかーさん〟が正しいのか、答え合わせをするかの様に。
そうこうしているうちに、保育園に着いた。
いつもより迎えに来る時間が遅くなってしまったので、もう殆ど残っている園児はいなかった。
「……ちわーっす。遅くなりました」
俺は若干気まずい思いを抱きながらも、引き戸を開く。
その音で大部屋の隅でひとり遊びをしていた珠理が顔を輝かせて上げるも、弥織がいないのを確認したのだろう。一瞬泣きそうな顔をして、顔を伏せていた。
「依紗樹さん、今日は遅かったですね」
奥からぱたぱたとスリッパの音を響かせて、保育士の木島夏海先生が顔を覗かせる。
「ああ、はい。ちょっと学校で残らされたもので」
「……それで、〝おかーさん〟が今日は来てないんですか?」
訝しむ様な、何かを心配する様な、そんな感情が垣間見える表情で、木島先生が訊いてくる。
「あー……いえ、それとはあんまり関係ないかも、です」
バツの悪い顔をして歯切れ悪く答えると、先生は溜め息を吐いた。
「今日、ずっと珠理ちゃん浮かない顔でしたよ。話し掛けても遊んでいても心ここにあらずって感じで、寂しそうな顔をしていました」
「そうですか……」
ちらりと珠理を見やると、彼女はぼーっとした顔で電車の玩具を前後させているだけだった。
珠理は珠理なりに気まずい思いをしているのだろうか。それとも、ただ彼女にとっては唯一の肉親で同居人の俺を怒らせてしまった事に罪悪感を抱いているのだろうか。それはわからないが、いつもなら駆け寄ってくる彼女がこうしているところを見ると、何かしら思うところはあるらしい。
「何か言ってましたか?」
「いえ……事情を聞いても話してくれなくて。私はまだまだ珠理ちゃんに信用されてないんですかねぇ」
他の子よりかなり気にかけてるのに、と木島先生は肩を竦めて嘆息した。
木島先生もうちの家庭環境に関してはある程度知っている。それもあって、珠理には他の園児よりも注意を払ってくれている様だ。
「ゴールデンウイーク中、もし〝おかーさん〟でもどうにもならなかったら連絡下さい。私も駆けつけますので」
木島先生はそう言って名刺を俺に渡した。
そこには彼女のメールアドレスと電話番号の記載がある。
「ありがとうございます。まあ……何とかなるといいんですが」
俺は名刺を財布の中に仕舞うと、同じく肩を竦めて苦笑を浮かべた。
わざわざ保育士さんを無償で休日出勤させるわけにもいかないので、何とかするしかない。
これが他人だったら楽なのにな、と思う事はやはりある。友達との喧嘩なら、数日距離を置いてお互い冷静になってから話し合えば、解決も難しくはないだろう。
しかし、俺と珠理は兄妹だ。帰る場所は同じだし、親父には頼れないしで、否応なしに向き合わないといけない。誤魔化しが効かないのである。
「さ、珠理。帰るぞ」
一向にこちらに来る気配のない珠理のもとまで行って屈むと、俺はそう声を掛ける。怒っていないと思わせる為になるべく優しい声で話掛けたつもりだ。
「……おかーさん、こないの?」
珠理は電車の玩具を前後させる手を止めると、視線を下げたまま訊いてくる。やはり弥織が来ない事が気がかりだった様だ。
「おかーさんは一回家に帰ってるんだ。昨日言ってたクマのぬいぐるみ、取りに帰るんだってさ。さっ、帰ろうか」
俺の言葉に珠理はこくりと頷いて、玩具を遊具箱に戻した。
弥織が泊まりに来る事はまだ言わなかった。実際、この後の流れでどうなるかはわからないと思ったからだ。珠理の反応次第では、弥織にも無理をして泊まらせるわけにはいかない。
俺は木島先生と他の保育士さんにぺこりと頭を下げると、そのまま保育園を後にする。
道中、珠理と手を繋ぐ事はなかった。
登園の時と同じく、珠理が俯いたまま俺の半歩後ろを歩くので、繋ぎようがないのだ。無理に手を取る事もできるが、今それをしても逆効果な気がして、結局そのまま歩いた。
昼飯の材料を買いに、帰りにスーパーに寄っても、珠理はどこか弥織を探す様にきょろきょろとしていた。
──後で来るって言ってるのに。
俺は小さく嘆息すると、「離れるなよ」と言ってやる。
珠理はこくりと頷き、相変わらず俺の半歩後ろを歩いた。
「ナポリタンでいいか?」
「うん」
珠理は俯いたまま頷いた。彼女の表情は窺い知れない。
「ほい、りょーかい」
俺はそう軽い返事をすると、玉ねぎとピーマンを買い物かごに放り込んだ。
太麺のパスタはまだ残っていたし、蜂蜜とケチャップ、ソースも弥織が買ってくれたのが家にある。野菜とベーコンだけ買えば事足りるだろう。
後は牛乳など珠理が好むものを買って、と考えていた時に、ふと思う。
──そういえば、二人でこのスーパーに寄るのも随分久しぶりだな。
この数週間は、弥織がずっと一緒だった。
帰りに一緒にこのスーパーに寄って、一緒に献立を考えてくれて、珠理をあやしてくれていた。
珠理と二人で来た回数の方が圧倒的に多いはずなのに、弥織がいない事に全然慣れられない。
もし〝おかーさん〟期間が終わってしまったら、俺の方が日常に戻るのに時間がかかりそうだ。
買い物を済ませると、そのまま家に帰った。その間、会話はほとんどない。俺が「信号渡るぞ」と言ったり、「前危ないぞ」と言ったりする程度。
弥織が〝おかーさん〟になる前、外ではどんな事を話していたっけ。もうそれすら思い出せない。
──俺の方が〝おかーさん〟に依存しているのかもしれないな。
そんな自分に気付いて、苦笑いを浮かべた。
家に着いてからは、早速ナポリタンを作り始める。伊宮弥織直伝なので、もうまずいとは言わせない。それに、作り方さえわかれば誰にでも作れる代物だ。
無論、ソースやケチャップ、蜂蜜などの塩梅を間違えれば事故に繋がるが、さすがに大きく間違える事もない。
ピーマンは後入れ、ケチャップの酸味を飛ばすなどの彼女のアドバイスを思い出しながら、作っていく。
最後にバターを溶かして、完成だ。
──うむ、我ながら良い出来だな。
パスタをプライパンに入れてかき混ぜながら、満足に浸る。匂いと言い、色合いといい、過去一のナポリタンである。
皿に盛ってダイニングテーブルまで運ぶと、ひとりで絵本を読んでいた珠理を呼び、昼食を開始。
二人で「いただきます」と声を合わせて、早速自作のナポリタンを食した。
──おお、結構イケるじゃないか。
麺を出すタイミングとか、その他調味料の分量まで完全再現はできていないので、全く同じ味ではない。ただ、かなり弥織の作るナポリタンに近い味は出せている。
「珠理、ナポリタン美味いか?」
あまりに会話がないので、俺は訊いてみた。
珠理はこくりと頷いて「おいしい」と言ってから、「おかーさんと同じ味」と付け加えた。
「そっか。それはよかった」
結局昼食中にした会話は、それだけだった。
普通の親子や兄妹は、喧嘩をしたらどうやって仲直りをしているのだろうか。
こういう時に、もう少し相談できる友達を増やしておくべきだったな、と後悔するのだった。
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