第57話
弥織が少し落ち着いてから、俺達は水族館を出た。人が徐々に増えてきていたし、いつまでもベンチを占有しているのも申し訳なく思えたからだ。
水族館を出てからは、海浜公園へと赴いた。
海沿いを歩いているさ中、俺達の間には殆ど会話らしきものはない。照れ臭くて、何を話せばいいのかわからなかったのだ。それはきっと、弥織も同じだったのだと思う。
ただ、水族館で繋がれた手が離される事はなかった。
ベンチを立ってからゲートを出ても手は繋がれたままで、たまに目が合うと恥ずかしそうにお互い視線を逸らす。一体二人揃って何をしてるんだと思うが、そんな事を数十分にも及んで繰り返した。
海風が頬を吹きつけ、弥織の長い髪を揺らす。
高鳴る心臓、自分の手汗が気持ち悪く思われてないかという不安、それと嬉しさ。色んな気持ちが入り混じっていた。
「なんか……色々ごめんね。ほんとは珠理ちゃんの事話そうって思ってたのに、自分の事ばっかり話しちゃって、挙句に泣いちゃうし……」
俺達が再び会話を交わしたのは、その数分後だった。海浜公園の展望デッキに辿り着いて景色を一望した時、弥織から会話を切り出したのだ。
この時には既に手は離されていた。ちょうど珠理と同じ年くらいの男の子が目の前で転んで泣いていたのを、起こしてやったからだ。
一度手を離してしまうと、繋ぎ直すのも何だか恥ずかしくて、結局そのまま歩いてしまった。
「いや……色々弥織の事を知れて、嬉しかったよ」
何となくだが、彼女がどういう気持ちであの話をしたのか、わかった気がした。
もともと弥織は、うちの家庭環境から珠理が自分と近しい存在である事に気付いていたのだろう。珠理が弥織と大きく異なったのは、兄がいた事だ。
しかし、そんな俺と珠理が、ちょっと良くない喧嘩の仕方をしてしまっている。そう察知した弥織は、このままいくと珠理は自分と同じような道を辿るのではないか、と危惧したのだ。
だからこそ、俺の心から珠理が離れてしまった後に、彼女が自分の存在について理解した時──父や兄からお母さんを奪ったと思ってしまった時──にどんな道を辿るのか、自分の過去を話す事で俺に伝えたかったのではないだろうか。
尤も、この事を話すのは弥織にとっても簡単な事ではなかったはずだ。自分の傷口を
それでも、弥織は俺にその事を伝えたかったのである。珠理には俺しかいないのだから。
「怒ってないのか?」
「何を?」
「珠理との喧嘩について、何も話さなかった事……」
俺は若干の躊躇を覚えながらも、遂に切り出した。
弥織がそこまでの覚悟を持って話してくれたのだ。ここで俺が珠理との間で生じた喧嘩について伏せておくのは、さすがに筋が通っていないだろう。
「怒らないよ。だって……私が絡んでる事なんでしょ?」
弥織は困り顔で笑った。
その笑顔が、昨晩夢の中で見た母の面影と何処か被った気がした。
「どうしてそう思うんだ?」
「何となく……そんな気がしただけ。依紗樹くんが珠理ちゃんと喧嘩して、その原因を私に言わないって事は、そうなのかなって」
思い上がりだったらごめん、と弥織は付け加えた。
こういう時に、やはり彼女はとても賢くて、俺や珠理の事をよく理解している〝おかーさん〟なのだな、と思わされるのだった。ここまで彼女が色々見抜いているならば、もう黙っている方がマイナスだ。
俺は昨日弥織が帰ってからあった出来事について話す事にした。
珠理がいきなり『お母さん』について訊いてきた事、『お母さん』の写真を見たいと言い出した事、そして、俺がそれについて濁しても珍しく駄々をこねた事。
無論、俺がそれについて怒ってしまった理由も話した。
この一か月間築いてきた、俺と弥織の〝おとーさん〟と〝おかーさん〟の生活を否定された気がした事、楽しかった三人の時間も否定された気分になった事、弥織の頑張りを否定された気持ちになった事、その少し前まで二人で『大好き』と言い合っていたのに、どうしてそんな事が言えるんだと理不尽に思った事。
「そっか……依紗樹くんが怒ってたのは、私の為だったんだね」
弥織がこちらを見て、目を細める。
そうはっきり言われてしまうと、恥ずかしい。いや、実際自分で冷静になって考えてみると、完全に弥織の為に怒っている様なものだった。
「怒ってくれてありがとう。でも、私の事で珠理ちゃんを泣かせるのはやめてほしいなぁ」
弥織は御礼を言った後に、呆れた様に嘆息をする。
俺はバツが悪くなって、視線を海原へと向けた。何だか、遠回しに告白してしまった様な気分になったからだ。
さっき『傍に居てくれなきゃ困る』だの何だのと言ってしまった後に何だが、自分が怒った事を冷静に話す恥ずかしさも相まって余計に気まずい。
「ん~! それじゃ、そろそろ学校も終わる時間帯だし、帰ろっか?」
弥織は海原に向けて大きく伸びをすると、何か憑き物でも落ちたかの様にすっきりした笑顔をこちらに向けた。
それは、彼女自身が過去を話した事に関係しているのだろうか。もし、俺が言った事で彼女の心を少しでも楽にできているなら嬉しいな、と思いつつも、それを確認する勇気はなかった。
「あ、そうだ。ちょっと気まずいかもしれないけど、今日は珠理ちゃんの事一人で迎えに行ってくれないかな?」
「え? それは、いいけど……」
初めて一緒にお迎えに行って以降、弥織もいつも一緒に迎えに行ってくれていた。
やはり、さっきの珠理の言葉を伝えてしまった事で、彼女にも嫌な思いをさせてしまったのだろうか。
「あ、さっきの話で怒ってるわけじゃないよ? そうじゃなくて……」
弥織は少し言い淀んでから、恥ずかしそうにおずおずとこちらを覗き込む。
「珠理ちゃんにあげるぬいぐるみと……その、着替え、取りに帰ろうかなって思って」
「着替え?」
「うん。ゴールデンウイークにお泊りって、前に話したじゃない? それ、今日にしようかなって。ダメ?」
そうだった。何だか流れで学校をサボってしまったけれど、明日からゴールデンウイークだ。
確かに、今の珠理の状態で二人きりになるのは辛い。辛いけども、ここで彼女に頼ってしまっても良いのだろうか。弥織にとっても、珠理の発言は色々気まずいというか、接しにくい様に思うのだ。
「い、いや、全然ダメじゃないけど……それより、弥織はいいのか? なんていうか……お前じゃダメだ、みたいな風に言われた後だと、嫌だろ」
俺がそう言うと、弥織は首を横に振った。
「さっきの話聞いて思ったんだけど……珠理ちゃん、そんな事言ったり思ったりする子なのかな?」
「え?」
「珠理ちゃんは確かに言葉足らずなところがあるから、依紗樹くんがそう受け取っちゃうのもわかるんだけど……でも私、多分違うと思う」
だって、と弥織は続けた。
「依紗樹くんが傷付く事、珠理ちゃんが言うわけないよ」
まるで断言する様にそう言って、弥織は目尻を下げた。
その時に浮かべた笑顔は優しくて、同い年なのに聖母の様な優しさを持っていて、俺の心の中にある刺々しさを奪っていく。そこには、珠理に対する疑念が一切なかったのだ。まるで我が子を信じる様に、珠理の事を信じている様だった。
「いや、でもお前さ、ほんとに腹立たないのかよ? あれだけ色々して〝おかーさん〟してくれてるのに、本当のお母さんの話聞かせろってさ……なんか答え合わせみたいじゃんか」
「腹なんて立たないよ。だって、本当のお母さんじゃないのは事実だもん」
弥織は相変わらず困った様に笑っていた。
そこには、ひとかけらほどの苛立ちや不満も無さそうだった。
それに、と前置いてから、弥織はこう付け加えた。
「本当のお母さんじゃなくても、私は珠理ちゃんの〝おかーさん〟だって思ってるし、珠理ちゃんもそう思ってくれてるって……信じてるから」
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