第54話
翌日は朝目覚めてからも、珠理とは話さなかった。
彼女は俺よりも早く起きており、先に一人で準備をしていた。一人で顔を洗い、一人で保育園の制服に着替えている。
「……おはよう」
こちらから声を掛けてみるが、「……ん」と反応があっただけで、それ以降会話はなかった。
目も合わさないし、言葉も交わさない。
制服に着替えてから歯を磨き、二人分のトーストを焼いてヨーグルトを容器に入れる。
俺達は無言で朝食を済ませてから、何んとなしにいつも出る時間になって家を出た。
──参ったな。
俺は心の中で、大きな溜め息を何度も吐いていた。
そういえば、俺と珠理はこういった喧嘩をした事がない。珠理も我儘など言った事がなかったし、俺も声を荒げて怒った事などなかったからだ。
いつもは繋ぐ手を、繋がないで歩く。
珠理は何度か癖で俺の手を持とうとしていたが、気付いて手をひゅっと引っ込めてしまっていた。
──あー、こんな感じだと、絶対に弥織にバレるよなぁ。
彼女にこれ以上の心配をかけたくなかったので、寝て起きたら機嫌が戻ってないかと期待していたが、昨日よりも酷くなっていた。
程なくして、弥織との合流地点に達する。
弥織はこちらを見掛けて手を振って「おはよう」と言おうとするも、口を「お」と開いた時点で、俺達の空気が普段と異なる事を察したのだろう。上げた手を降ろして、そのままこちらに歩み寄ってきた。
「おはよう……?」
こちらの様子を伺う様に、俺と珠理を見比べておずおずと挨拶をする。
俺が「おはよう」と返したタイミングで、珠理はとてとてと弥織の前まで歩いて行き、彼女のお腹のあたりにひしっと抱き着いた。
弥織が視線だけで『何があったの』と訊いてくるが、俺は肩を竦めて視線を逸らし、小さく息を吐く。
「どうしたの、珠理ちゃん? お兄ちゃんと喧嘩した?」
「んー……!」
珠理は言葉をちゃんと発さず、ただ弥織に抱き着くだけだった。
弥織は困り顔で俺を見て彼女の頭を撫でるが、俺も俺で何も言葉を発さなかった。いや、発せなかった。
この状況を説明するには、否応なしで昨日の出来事を話さなくてはならなくなる。
それは、弥織を傷付けてしまいかねない事柄なのである。
「……おかーさんと保育園、一緒にいこっか」
弥織は屈んで珠理と視線を合わせてそう言うと、妹がこくりと頷く。
正直に言うと、俺は珠理のこの態度にも腹が立っていた。
昨日は本当のお母さんがどうのと言い、それはまるで俺達のやってきた〝おとーさん〟と〝おかーさん〟を否定しかねないものだった。
それなのに、こうして弥織に〝おかーさん〟を求めるのはどうかと思うのだ。筋が通っていないではないか。園児に筋など求めるものではないという事も、無論わかってはいるけども。
結局珠理は弥織とだけ手を繋いで、そのまま保育園へと向かう。
保育園の前で木島夏海先生に珠理を託すと、彼女もやはりプロというべきか、異変には気付いた様だ。珠理を中まで連れて行ったあと、すぐに俺のところまで戻ってきた。
「親子喧嘩ですか? それとも、
木島さんが、こっそりと耳打ちする様に声を潜めて訊いてくる。
「兄妹、の方ですかね、多分」
俺は嘆息して答えると、木島先生も呆れた様に溜め息を吐く。
弥織はそんな俺を、横から心配そうに見つめていた。
「まあ、年が離れていても、兄妹ですもんね。色々あるとは思いますけど……こちらでケアできそうでしたらしておきますね」
「すみません、お願いします」
俺が頭を下げると、弥織も倣って頭をぺこりと下げた。
いつもは「おとーさん、おかーさん行ってらっしゃい!」と言いに来る珠理の姿が、今日はなかった。
「……何があったの?」
保育園を出て早々に、弥織が訊いてきた。
彼女としては、気になっていても珠理の手前聞けなかったのだろう。
「別に、何も」
「何もないわけないでしょ? そんなの見れば誰でもわかるよ」
至極当然の意見に、俺はぐうの音も出ない。
それに、先程弥織のいる前で兄妹喧嘩があった事は言ってしまっている。何もないで逃げるのは無理があった。
「いや、まあ……ちょっときつく叱り過ぎちゃってさ。いつもはしないんだけど、怒鳴っちゃって……それで、それ以降そんな感じ」
とりあえず、内容には触れないで曖昧に誤魔化す。
「珍しいね。依紗樹くんが叱るって……」
「まあな。珠理も普段は良い子だから、叱り慣れてなくて。ちょっと昨日はカリカリしてた事もあって、それで、つい声を荒げちゃってさ……怖がらせちまった」
俺は弥織の目を見ないで言った。
嘘は言っていないとは思う。間違いなくカリカリしていて、声を荒げて怖がらせてしまったのは間違いない。
「……それで? 珠理ちゃんは、何をして叱られたの?」
弥織が立ち止まって、真剣な眼差しでこちらを見つめてくる。嘘や言い訳はやめてくれ、とでも言いたげな視線だった。
弥織とて、もうひと月近くほぼ毎日珠理と会っている。珠理がつまらない悪戯をする子でない事はわかっているし、怒鳴らなければならない程悪い事をする子でもない事は理解しているだろう。そして、俺がそういった怒り方をしない事も、彼女は知っている。
伊達に〝おかーさん〟はやっていない。誤魔化すのは不可能だった。
「それは……」
俺は口ごもった。
これを言ってしまってもいいのか、弥織を傷付けてしまいかねない事になるのではないか、そしてこれを言ってしまえば俺達の時間も、俺達だけの想い出作りも全て終わってしまうのではないか──そんな危惧が芽生えていて、それ以上話せない。
喉の奥がカラカラ乾いてきて、息苦しい。
弥織はそんな俺を見て困った様に笑って、こう言った。
「ねえ、依紗樹くん。今日午前授業だけだし、学校サボっちゃおっか?」
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