第53話
弥織が帰った後に、珠理を風呂に入れて、髪を乾かしてやっている最中の事だった。
「ねえ、おにーちゃん」
妹が唐突に呼び掛けてきた。
「んー? なんだ?」
ドライヤーを少し離して、妹の声に応える。
もう弥織がいないので、俺と珠理はただの兄妹に戻っている。最初はその変化に戸惑っていたが、今では慣れたものだった。
「お母さんって、どんな人?」
「おかーさん? 弥織の事ならお前もよく知ってるじゃないか。優しくて面倒見も良くて、料理もできる──」
「そうじゃなくて、ほんとうのお母さん」
髪を乾かしていた俺の手が止まる。多分、息も止まっていた。珠理の口からそんな言葉が出てくる事が意外過ぎたのだ。
一呼吸置いてから、ドライヤーを冷風モードに変えて、彼女の髪を再び乾かし始める。
「何で……そんな事、訊くんだよ」
俺が返せた言葉はそれだけだった。他に、返しようがなかったからだ。
「保育園で、誰かに何か言われたのか?」
俺の質問に、珠理はふるふると首を横に振る。
それもそうだろう。もし、それ関係で何かあったなら、木島先生が俺に教えてくれるはずだ。昨日の彼女は俺をからかうだけで、そういった事柄は何も言ってこなかった。
「お母さんのこと、気になる。おしゃしんもみたい」
珠理の髪が九割方乾いたところで、俺はドライヤーのスイッチを切った。
「……ないよ」
俺は、予め用意していた答えを言う。
いつか珠理が母さんの事を訊いてきたら、そう答えようと思っていた言葉だ。少なくとも、小学校に上がるまではそれでいいかとも思っていた。
それはきっと、俺もあまり話したくなかったからだ。
「お母さんの写真はないんだ。だから、ごめんな」
「やー。おしゃしん見たいー」
珍しく妹がすぐに異議を唱えた。
その反応に、少しカチンとくる。いつもなら素直に言う事を聞くのに、どうしてこう深入りして欲しくない場所に限って入って来ようとするのだろうか。
「ないものはないんだ。我儘言わないでくれ」
本当は、ある。俺の部屋のクローゼットの奥に隠してあるのだ。
彼女が本当のお母さんについて知りたがっていたのだから、もう見せてやってもよかったのかもしれない。きっと、それが最適解だったはずだ。
でも、どうしてだろう? この時の俺は、何故かそれを拒絶していたのだ。見せたくない、母さんの事を話したくないと瞬間的に思っていた。
「やー! 見たい! お母さんのおしゃしん、見たいー!」
珠理が駄々を捏ねる様にして言う。
その反応に、俺は自分でも予想できない程に苛立ってしまった。どす黒い感情が胸の中を満たしていく。それは決して妹には抱いてはいけない感情だった。
我慢しようとは思った。でも、できなかった。俺は異常なまでに、珠理のこの態度や質問に苛立ちを感じてしまっていたのだ。
「ないって……言ってんじゃねえか!」
そして、苛立ちの限界を超えてしまった時、自分でもびっくりするほど大声で怒鳴ってしまった。
言ってから『しまった』と思ったが、もう後の祭りだった。
珠理は目に涙を溜めたかと思うと、立ち上がって居間を走って出て行く。
「おい、待てって!」
そう呼び止めるも珠理は止まらず、そのまま一人で二階まで上がってしまった。
俺は大きく溜め息を吐いて、自分の髪をくしゃりと握りつぶす。
「何、やってんだよ、俺……」
自己嫌悪に
今まで珠理を怒鳴りつけて叱った事などなかった。ダメな事や悪戯な事をした時は、怒鳴って頭ごなしに叱らず、『どうしてこれが悪い事なのか』という事を自分で考えさせていた。珠理自身に物事の問題を理解・納得させてから答えを出させていたのだ。
辛気臭いな、とは思った。しかし、それが一番良い教育方法だと木島先生から言われていたので、そこだけは守った。子供の考える力を育てるのには、怒鳴りつけるよりもその理由を理解させる事を優先すべきなのだと言う。
日頃のストレスから、なかなか普通の親もこの教育方法は実践できないらしい。俺は逆に親ではないからこそ、その育て方ができるのだと思っていたし、実際にできていた。少なくとも、今日までは。
でも、今日だけは無理だった。どうしてか俺は、珠理のお願いに苛立ちと怒りを抑え切れなかったのだ。
珠理が駄々を捏ねた事は、過去に例がない。弥織におかーさん役を頼む事でさえ、駄々は捏ねなかった。
それがどうして──と一瞬考えて、バカ野郎と自分を
──何で、俺はあんな怒り方を……?
そう思った時、一瞬弥織の笑顔が頭を
珠理が本当のお母さんの話を持ち出した時──弥織を否定された気がしたのだ。
弥織だけではない。この約一か月間で築いてきた、俺と弥織の〝おとーさん〟と〝おかーさん〟の生活を否定された気がしたのだ。
少なくとも、四月に入ってから始まったこの生活は、俺にとってとても楽しかった。その楽しかった一か月間を、珠理のその一言で全否定された気がしたのだ。だからこそ、きっと苛立ってしまったのだろう。
本当のお母さんが気になる珠理の気持ちもわかる。
でも、それを気にさせないくらい、弥織は頑張ってくれているじゃないか。それも、珠理がおかーさんと遊びたいという気持ちを持っていて、不安ながらに頑張ってくれていた。朝も夕も一緒に保育園に送り迎えに行って、週に何度もうちに飯を作りにきてくれて、珠理と遊んでやっていて。さっきだって、二人で『大好き』と言い合っていたじゃないか。『おかーさんとお揃いがいい』と言って、ペアのクマを選んでいたじゃないか。それなのに、どうしてそんな事を言うんだ。妹の心理が全く理解できなかった。
弥織は「やりたいからやっているだけ」という風な感じで言ってくれているが、無理をしていないわけがなかった。やる事が増えて自分の時間が減っているのだから、何かしらの無理は生じているのは間違いない。
彼女のその厚意に俺がどれだけ助けられているのかはもう計り知れない。正直に言うと、弥織には足を向けて眠れないとさえ思っていた。
子供にその全てを理解しろというのは無理だ。それは解っている。しかし、そこまでしてくれている弥織をどうして否定するんだと憤りを感じてしまったのだ。
──結局、御飯事じゃダメだって言うのかよ……!
俺達のやっている事など、所詮は御飯事に過ぎない。そんな事はやる前からわかっていた。
弥織は珠理の母親ではないのだから、完全に代わりになどなるはずがない。だが、それでも彼女は精いっぱいやれるだけの事をやってくれている。俺と同じ高校生で、しかも俺と違って何も義務などないにも関わらず、だ。
俺や弥織がどれだけ珠理の為に時間や精神を費やしているかと思うと、腹が立って仕方がなかった。怒鳴ってしまった事に関しては申し訳ないと思いつつも、どうしても珠理への憤りが抑え切れなかったのである。
──弥織だったら、こんな時どう言うかな。
スマホを取り出し、LIMEのアプリを開く。
弥織とのメッセージ画面を開いて、『通話』にタップしようとしたが──
弥織に電話して、何を話すつもりだったのだろうか、珠理がお前では不満だと言い出したとでも言えというのか? そんな残酷な事を、これほどまでの献身的に珠理の為に動いてくれている彼女に言うつもりなのだろうか。
そんな事を言ってみろ。もう、この〝おとーさん〟と〝おかーさん〟の魔法はその瞬間に解けてしまう。俺達三人の時間も、そこで終わってしまうのだ。
こんな事を弥織に相談できるはずがなかった。そして、やはりこんな残酷な事を言い出す珠理を許せるはずがなかった。
俺はその後家事を終えて、暫くテレビを見て時間を潰してから、二階に上がった。
珠理は毛布に包まったまま、一人で眠っていた。
自分の部屋で寝てやろうかとも思ったが、それは大人げないにも程があるだろうと思い、いつも通り珠理の横に寝転がる。
ふと、彼女の寝顔を覗き込むと、涙が乾いた痕があった。どうやら、一人で泣き疲れて眠ってしまった様だ。
彼女の目尻に残った涙の痕を優しく指で拭ってから、珠理に背中を向けて目を瞑る。
──母さん。『珠理の事任せた』って言うけどさ……俺にこれ以上どうしろってんだよ。
重くなってきた瞼の裏で、もう五年間は会っていない母の姿がうっすらと浮かんでくる。
誰にも頼れず、甘えられない今の自分。こうなってしまった時に、誰に縋ればいいのかすらわからない。本当の父親は今も逃げてばかり、母さんはこの世にすらいない。
俺は、誰にも頼る事ができないのだ。
──俺だって、母さんに会いたいよ……。
眠りに落ちる前、意識の奥にいる母さんが困り顔で笑っていた気がした。
その困り顔が、少しだけ弥織と被って見えるなと思った瞬間──俺の意識は、途絶えていた。
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