第55話 

 マイワシの群れが、目の前を通り過ぎて行った。

 できる限り海を再現したと言われるその大水槽の中では、マイワシの群れの他、エイやサメなど、数多の海の生物が泳ぎ回っている。海の底を歩く様な造りになっている水族館で、まるで自分が海の中にいるのではないか、と錯覚を覚える程だ。

 腹で笑みを浮かべるエイ──あくまでもそう見えるだけである──が羽ばたく様にヒレを波打たせて頭上を泳いで行く。

 俺は頭上を意気揚々と通り過ぎていく魚達に何だかバカにされている気分になって、小さく溜め息を吐いた。

 今日は土曜日だが、開館からまだ間もないという事もあって、人はまばらだ。子供連れの親子や男女のカップルが数組いるだけで、ほとんど貸し切りに近い。きっと、あと一時間もすれば混雑してくるだろう。

 だが、その御蔭で特等席とも言える、大水槽のど真ん中にあるベンチに吸わりながら、水槽全体を見る事ができていた。

 俺は近くの水槽のガラスを鏡代わりに前髪を弄って、もう一度視線を上に上げた。さっきとは別のエイが、サメと並んで泳いでいる。


 ──カップル、か。俺達もそう見られているのだろうか。


 俺はちらりと横目で、隣に座る女性を見た。

 彼女は瞳をキラキラ輝かせて、その幻想的な水槽の世界を眺めている。


『今日午前授業だけだし、学校サボっちゃおっか?』


 学校一の美少女にして優等生・伊宮弥織から、そんなとんでもない提案をされたのがほんの一時間程前の話。珠理を保育園に預けて、俺が珠理との喧嘩理由を話せないでいると、唐突にそう提案してきたのである。

 何となく学校に行くのも憂鬱だった事もあって、俺は彼女の誘いに乗る事にした。鬱々とした気分のまま授業をやり過ごし、その後にまた珠理を迎えに行かないといけないかと思うと、さすがに俺も精神的に厳しいものがあったのだ。

 どこか行きたい場所があるのかと訊くと、『水族館!』と彼女は元気よく答えた。しかも、少し離れている大きめの水族館をご所望だった。

 そうして俺達は、通学で行き交う学生達とは反対の駅方面へと歩き出し(すれ違った聖高の生徒達からは怪訝な目で見られた)、電車で遥々水族館まで移動したのだった。

 水族館はちょうど開館したタイミングで、中にはほとんど人がおらず、貸し切り状態。きっと、彼女から学校をサボろうと提案されていなければ、一生経験しなかったに違いない。


「こうして大きな水槽に囲まれたところに座ってると、何だかどっちが視られてるのかわからなくならない?」


 弥織がくすっと笑って、こちらを見てきた。

 笑った拍子に肩が触れ合い、思わず胸が高鳴る。


「まあ、確かに」


 俺は頭上を笑いながら通り過ぎていくエイを睨みつけながら言う。

 そう言われたら、本当にこいつには見られている気になってきた。しかも、バカにされながら。何だかそう思うと腹が立ってきて、エイの刺身でも食ってやりたい気分になってきた。


「こんなに大きな水槽だと、餌やりとかどうしてるんだろう? みんなちゃんと食べれてるのかな」

「確かに」

「それに、あんなに大きなサメと一緒に水槽に入れてたら、小さな魚とか食べられちゃいそうじゃない? さすがに水族館に来て、水槽の中での食物連鎖は見たくないよね」

「確かに」

「……生息域がタラの漁場と重なる事に名前が由来している、ヤドカリの仲間は?」

「え? タラバガニ?」


 俺が一瞬詰まって答えと思わしきものを言うと、彼女は「正解」と笑った。

 ちなみにこれは、さっき蟹の水槽を見ていた時に弥織が『タラバガニってヤドカリの仲間なんだって』と教えてくれたのである。


「何でいきなりタラバガニなんだよ?」


 全く話が繋がっていなかった。水槽の中の餌とか食物連鎖の話をしていたと思ったのだけれど。


「だって依紗樹くん、さっきから何話しても『確かに』しか言わないんだもん。それで、何言っても『確かに』って言うのかなって」


 実験してみたの、と弥織が付け足した。

 なるほど、それでカニで掛けていたのか。別に話を聞いていないのではなく、聞いた上で『確かに』と応えていたのだけれど、彼女は俺がテキトーに返事をしていると思っていた様だ。


「ちゃんと聞いてるよ」


 弥織は俺の答えに満足したのか、「それならよかった」とはにかんでいた。

 彼女の声から成る言葉は一言も聞き逃したくない──さすがにそこまで言うと、大袈裟だろうか。ただ、彼女のアルトからもたらされる話し声はまるで何かのリラクゼーションの様に心地良くて、ずっと聞いていたくなるのだ。


「それで、何で水族館なんだ?」


 今更ながら、訊いてみる。

 弥織はこれまでの間、水族館を選んだ理由も、学校をサボろうと提案した理由も話そうとしなかった。俺が訊かなかったというのもあるかもしれないが、それにしても、と思う。

 ちなみに、彼女が学校をサボったのは人生で初めてだそうだ。水族館に入る前に始業時刻を迎えたのだが、その時彼女は「人生で初めて学校サボっちゃった」と嬉しそうに話していた。

 俺も珠理が風邪を引いて寝込んだ時を除けば、自分の病欠以外で休んだのは初めてだ。めでたく俺達は二人揃って初めてのサボタージュを経験してしまったらしい。


「この水族館……昔から来てみたかったんだけど、来れなかったの」

「来れなかった?」


 どういう事だろう、と思って弥織の横顔を見る。弥織は柔らかい笑みを浮かべたまま、水槽の中の魚達を眺めていた。

 この水族館、という事は、ここの水族館に来てみたかったという事だろう。ちなみに場所を指定したのは、彼女だ。本当はもう少し近い水族館もあったのだが、彼女がここがいいと言ったのである。


「うん……ここ、お父さんとお母さんが初めてデートした場所なんだって」

「え?」


 思わず、目を見開く。

 弥織の両親と言えば、彼女を産んで間もない頃に離婚している。その後父親の足取りは不明で、母親は病死しているのだ。

 彼女が両親に抱いている感情は決して良いものではないと思っていたので、まさかそうした話を彼女からするとは思ってもいなかった。


「もちろん、その頃から改装とか修繕もされてるだろうし、全く同じってわけじゃないとは思うんだけど……ずっと、来てみたくて」

「で……来てみた感想は?」


「うーん……」と弥織は少し考え込んでから、「水槽がおっきくて海の中にいるみたい」と小学生みたいな感想を言った。

 その見たままの感想に、思わず吹き出してしまった。両親の初めてのデートの場所という事から、もう少しセンチメンタルな気分になっているのかと思っていたのだ。


「お祖父ちゃんがお父さんの事大嫌いで、殆ど家にはお父さんに関するものは残ってなかったんだけど……お祖母ちゃんが、こっそりとお母さんの日記を残していて。そこに、ここでデートした事が書いてあったの」

「……日記に何て書いてあったんだ?」

「えっとね、『大きな水槽があって、海の中にいるみたい』だったかな」

「同じじゃんか」


 俺が笑うと、「うん、お母さんと同じ」と弥織は可笑しそうに笑った。

 それから彼女は、彼女の知る限りの両親の事を話してくれた。最初に『おかーさん役をやれない理由』を話してくれた時よりも、詳しい内容だった。

 弥織のお父さんは、かなり良い家の出身だったらしい。それこそ、親の言いなりに結婚相手とかを決められてしまう程の家柄なのだそうだ。

 しかし、お父さんは、そんな親の意向に逆らう様に、とある女性に恋をしてしまった。普通の家の出である、弥織のお母さんだ。二人はすぐに結ばれて、愛を育んだ。

 しかし、格式高い家柄のお父さんである。家からその交際には反対され、すぐに別れろと圧力を掛けられたそうだ。弥織のお母さんに茶封筒まで渡して、これで縁を切ってくれ、とまで言われたらしい。そのやり方に激怒したお母さんの両親──即ち、今弥織の面倒を見ている祖父母──も、さっさと別れろと言ったそうだ。

 しかし、弥織の両親はその反対を押し切って駆け落ち同然で家を出た。職も何もかもを捨てて、二人でアルバイトで生計を立てていたそうだ。籍もその時に入れたらしい。

 お母さんの日記には、その日々の生活は大変だったけれど人生で最も幸せだった、と書かれていたのだと言う。


 ──あれ、全然思っていたのと違うぞ。


 俺は弥織の話を聞いて、そう思った。

 生まれて間もない頃に別れてお父さんが行方知れずというと、てっきり夫婦仲が悪くて別れたのかと思っていたのだ。

 だが、この話を聞く限りはそうではない。生活に苦しいながらも仲睦まじく幸せな夫婦──俺には、その様に思えたのだ。別れる理由すらも見受けられない。


「そんな両親が、どうして別れたんだ?」


 訊いて良いか迷ったが、俺は意を決して訊いた。

 彼女がこの話をし始めた理由が、その先にあると思ったからだ。


「それは……」


 弥織は言葉を詰まらせていた。

 先程まで楽しそうに両親の過去を話してくれていたのに、弥織の表情が濁っていく。


「……私が、できちゃったから」

「え?」


 想像もしていなかった言葉に、俺は思わず言葉を失った。

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