第51話 

 春の夕間暮れ、通学路を弥織と二人で並んで歩く。いつも通り珠理のお迎えだ。

 弥織は信也やスモモを交えてどういった遊びをするのがいいのだろうか、と思案していた。トランプを用いたゲーム、或いは屋外で鬼ごっこやかくれんぼもいいかもしれない、と先程から楽しそうに提案してくる。

 俺は適当に相槌を打ちながら、ちらりと俺と彼女の間を見た。隣合わせで歩いているので、すぐそこには彼女の手がある。

 触れそうで触れない、そんな距離。それはまるで、俺達の距離感を表わしている様でもあった。

 あの時の様に繋いでみると、どうなるだろうか──そんな事を考えなくはない。でも、拒絶されたらどうしようとか、そんな気持ちが先走ってしまって、それ以上進む事などできなかった。

 スモモではないが、確かに自分自身へのヘタレ具合に関しては自覚せざるを得ない。


『オンナの言い訳ってやつなのよ、察しなさいよ』


 スモモの言葉が脳裏で蘇る。

 無論、その言葉に確証があるわけではない。スモモの勝手な思い込みである可能性もあるし、希望的観測なのかもしれない。弥織の事だから、本当に珠理の事を慮っている可能性もある。

 どこまで俺は望んでいいのだろうか? どこまで望めば彼女の負担になってしまうのだろうか?

 そんな疑問が俺の頭の中を駆け巡る。

 たまに触れ合う肩、そして触れ合う度に彼女が気遣って少し距離を空け、また少しずつ距離が縮んで行く。そんな事を繰り返していた。

 少し手を伸ばせば彼女と手を繋げるし、少し手を伸ばせば彼女の肩を抱き寄せる事もできる。それができるだけの距離間ではあった。

 無いのは、スモモの言う通り、俺の度胸だけだった。

 もし、この距離感が俺の思い上がりで、或いはスモモの勘違いだった場合──変に気まずくなって、彼女が〝おかーさん〟をやめてしまったなら……一番悲しむのは、珠理だ。

 そして、この三人の家族ごっこは俺にとっても居心地が良いし、誰も見ていない伊宮弥織を見れる俺の特権でもあった。それが見れなくなるのは、正直言うと悲しい。

 こう見てみると、あからさまに自分のヘタレ具合がよくわかってしまうのだが、それでもこれは俺だけの問題ではない。珠理の事も関わってくるのだ。だからこそ、俺も『えいや!』と一歩進めないのである。決してヘタレなわけではない……と思いたい。


「……聞いてる?」


 気付けば、弥織がこちらを不思議そうに見ていた。

 どうやら適当に相槌を打ち過ぎて、会話の流れが変になってしまっていた様だった。


「え、あ、ごめん。何だっけ」

「今日の夕飯の話だよ。大丈夫? 何だかさっきから上の空だったから……具合悪い?」

「い、いや、大丈夫! ちょっと腹減っただけ!」


 俺が慌ててそう言うと、「今日、おかず足りなかったかな?」と首を傾げている。


「でも、あのお弁当箱だとこれ以上増やせないしなぁ……」


 そして、悩ましそうに顎に手を当てる弥織。

 あ、しまった。余計な事に気を遣わせてしまっている。


「いや、きょ、今日は特別に腹が減ってるってだけだから、そこは大丈夫ッ」

「そうなの? ……じゃあ、今日はいつもより多めに夕飯作るね」


 しょうがないなぁ、とでも言いたげに弥織が微笑んだ。

 その笑顔はやっぱり可愛くて、胸が自然とぽかぽかしてくる。そして、俺の一挙一動次第ではこの笑顔が見れなくなるかもしれないと思うと、やっぱりどこか怖さを感じるのだった。

 俺は「楽しみにしてるよ」と応えると、こっそりと失望の溜め息を吐く。無論、失望は自分に対してだ。


 ──結局、俺がヘタレなだけなんだよなぁ。


 俺と弥織が二人で過ごせる時間は、実はそう多くない。

〝おかーさん〟役を演じてもらっているのだから当然なのだが、大半が間に珠理がいる。

 学校でも席が隣なだけで二人きりなわけではないし、昼休みも四人だ。一緒にいる事は多いが、二人きりなわけではない。

 二人で過ごせる時間は、保育園から学校までの区間、実質それだけだ。或いは、学校の授業が五限や六限の日はほんの少し二人でぶらぶらする時間がある。

 ただ、だからといってその時間にデートらしい事をしているわけではない。主に珠理の玩具や生活用品(服や着替えその他必要な物)を買いに行く時間に費やしてしまうので、結局は珠理の為なのだ。

 そもそも、仲良くなり始めた切っ掛けだって〝おかーさん〟役だ。その建前がなければ、俺は弥織に近づく事すらできなかった。そうした関係がここにも響いているのだろう。

 彼女や珠理と過ごす日々に、不満はない。先月までの俺からすれば、楽しいし気が楽だ。

 だが、楽しそうに笑う彼女の横顔を見る度に、物足りなさが積み重なっていくのも事実だった。

 人間の欲深さというのは、底知れない。例えば俺が今の物足りなさを満たせたとしたら、俺は一体彼女に何を望んでしまうのだろうか。そうして望んでばかりでは、彼女に苦労を掛けてしまうのではないだろうか。

 そんな不安が、どうしても俺の中では拭い去れないのだった。


「おかーさん!」


 保育園に行くと、珠理が相変わらず弥織のお腹に抱き着く。

 これも毎度の事で、もう見慣れたものだった。周囲のママさんや保育士さん達も微笑ましげに眺めている。


「相変わらず、〝おかーさん〟大好きっこですねー珠理ちゃんは」

「あ、木島さん。どもっす」


 保育士の木島さんが奥から出てきて、二人の様子を嘆息して眺めていた。


「で? 依紗樹さんはいつまでヘタレぶちかましてんですか?」


 そして、呆れた様な視線で俺の方を見る。


「……ヘタレなのはわかってるので、言わんで下さい」

「お? ヘタレなのは自覚できたんですね。それは一歩前進です。アリストテレスも無知の知って言ってますからね」

「うるさいよ、あんた」


 目上だけどこの人に対して徐々に敬語を使えなくなってしまう俺がいた。


「でも、あんなの見せられて……万が一関係が変わってこの光景がなくなるかもしれないと思ったら、ヘタレも出てしまうと思いませんか?」


 俺は言いながら、弥織と珠理を眺める。木島さんも俺の視線の先を追った。

 そこには、弥織にこれでもかというくらい抱き付いている珠理がいて、それに対して珠理の頭を優しく撫でる弥織の姿があった。こうして見ていると、本当に親子の様に思えてくるから不思議だ。


「おかーさん、だいすきー!」

「おかーさんも、珠理ちゃんの事大好きだよー」


 弥織も床に両膝を突いて、ぎゅーっと珠理を抱き締めている。

 二人の笑顔が眩しくて、こんな笑顔を見せられてしまうと、もう自分の欲求も何もかも吹っ飛んでしまう。世界の平和というか、幸福というか、そういったものが一気に凝縮されているとさえも思えてくるのだ。

 もし、自分の欲望を滲みだしてしまったが為に、この二つの笑顔が見れなくなったらと思うと、躊躇してしまうのも仕方ないのではないだろうか。


「こりゃどうやっても勝てませんなー」


 木島さんはその光景を見て、何故か諦めた様に笑っていた。

 何を誰に勝つつもりだったのか、文脈からは一切読み取れずに俺は首を傾げる。


「どういう意味ですか?」

「何でもありません、こっちの話ですよ」


 木島さんは咳払いをしてから、もう一度諦めた様な笑みをこちらに向けた。

 そして彼女は、こう付け加えたのだった。


「ま……この光景を守りたいと思うなら、二人は二人で特別な関係になった方が早いと私は思うんですけどね?」

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