第12話 父子の会話

 夜中にふと目が覚める。

 横では珠理がくーくーと可愛らしい寝息を立てて眠っていた。

 どうやら、妹を寝かしつけている間に俺も眠ってしまっていたらしい。疲れている日にはよくある事だった。

 

 ──まあ、今日も色々あったしな……。


 ふと、今日一日を思い返して、苦笑いを浮かべる。

 俺のお母さんになってくれ事案の誤解は解けたけども、肝心のお願いに関しては断られてしまった。

 明日にまたお願いしてみるつもりではあるが、伊宮さんにも伊宮さんなりの事情がある。しかも、彼女の過去を鑑みれば、結構酷なお願いだ。なかなかに難しそうだが、頼むだけ頼んでみるしかないだろう。

 

「おかー、さん……」


 ふと、隣から珠理の寝言が聞こえてきた。

 彼女はそう呟くと、お気に入りのくまのぬいぐるみをぎゅっと抱え込む。その拍子に、一滴の雫が彼女の頬を伝って枕を滲ませた。

 

 ──そりゃ、会ってみたいよな。お母さんと。

 

 指でその涙を拭って、心中でそう呟く。

 今珠理が言った『おかーさん』というのは、本当の母親だろうか。それとも、伊宮弥織の事だろうか。

 そのどちらかはわからない。ただ、珠理は母親の写真を見た事がなかった。それは俺が見せない様にしていたからだ。

 どうやっても会えない母親を写真で見るのは辛いのではないか──そんな気遣いと、ちょっとした特殊な事情が合わさっている。どちらかというと、前者の気遣いは後付けに過ぎない。

 というのも、うちは異例で、親父がこの家に母の仏壇や遺影を置きたがらなかった。

 彼は、この世界に母さんがいない事を未だ信じたくないのだ。だからこそ、母さんの墓参りにも行かないし、年忌法要にも参加しない。

 無論、もし仏壇や遺影が家の中にあれば、俺だってわざわざ珠理に母の存在を隠さなかっただろう。中学生ながらに俺はを読んで、今もその空気に合わせているだけに過ぎないのだ。

 そんな事もあって、母さんの写真を見る機会は俺もない。アルバムは家の中にあるが、俺の部屋のクローゼットの上の方にこっそりと隠してある。万が一にも珠理が見れない様に、絶対に彼女が届かない場所に置いたのだ。

 いつかは見せてもいいかもしれないが、今はまだ早い。色々話すのは、彼女がもう少し大人になってからにしたかった。

 

 ──或いは、俺自身がまだ受け入れたくないのかな。

 

 そんな事をふと思い浮かべた時に、一階の方からカタンと物音がした。

 時計を見てみると、夜中の十二時が過ぎたところだった。

 

 ──今日は帰ってるのか。

 

 俺は溜め息を吐いて、珠理を起こさない様に部屋を出て階段を降りる。

 俺と珠理の部屋がそれぞれ一部屋、客人が泊まりにきた時用の部屋、そしてが二階、それ以外が一階だ。一階には、広めの居間とキッチン、風呂、トイレ、洗濯室と和室があるが、和室は親父が帰ってきた時に寝る為の部屋となっている。

 高校生と園児が二人で暮らすには、あまりに広すぎる家。使い道などない部屋がいくつもある。

 自分の部屋だって、勉強をする時くらいしか使えない。寝るのはいつも珠理と一緒だからだ。

 早く一人で寝て欲しいと思いつつも、園児にはまだ早い。小学生に上がったら一人で寝る訓練もさせようと考えているが、こういうのは何歳頃から始めればいいのだろうか。俺にはそれすらわからないのである。

 階段を降りて居間に入ると、白髪交じりの痩せた男がダイニングテーブルの前に座っていた。男は写真立てを両手で持って、その写真をじっと眺めている。

 もう何度も見慣れた光景だ。その写真立ての中に映っているのは、ひとりの女性。俺の母さんで、この男の妻だ。

 結婚する前の頃の写真だろうか。母さんが随分若い頃の写真だった。


「親父、帰ってたのか」

「……ああ、依紗樹か。うん、久しぶりにね」


 親父は写真を前に伏せて隠すと、こちらに力のない笑みを向けた。

 親父は年齢にしていえば、まだ四十代前半のはずだ。しかし、働き盛りであるはずの年代なのに、その顔にはまるで生気も覇気もない。

 聞くところによれば、寝る間も惜しんで毎日毎日働いているそうだ。俺達二人を食わせる為と言えば聞こえはいいが、やっている事はただの現実逃避である。

 そう、母さんの死からの逃避。その悲しみを労働の疲労で誤魔化しているのだ。母さんが死んでから、ずっと。

 

「何か変わりはないか?」

「別に、何も。朝起きて、珠理を送って、学校行って、珠理を迎えに行ってから家に帰って、色々やって寝る。毎日その繰り返しさ」

「……そうか」


 親父はそれ以上何も言わなかった。

 俺は親父が普段どんな暮らしをしているのかよく知らない。家にこうして帰ってくるのは週に一度や二度で、それ以外はどこで暮らしているのかすらわからないのだ。何かあれば連絡はくれ、と言ってくれているが、こちらから連絡する機会は殆どない。

 居場所などは訊けば教えてくれるのかもしれない。ただ、俺がそこまで親父に興味を持てなかったので、極力踏み込まないようにしていた。

 ホテル暮らしなのか、どこか会社に近い場所に部屋を借りているのか、会社で寝泊まりしているのか、はたまた別に女ができて、女の部屋で暮らしているのか、それすらわからない。

 可能性を列挙してみただけで、最後のはないだろうと思っている。もし新しい女がいるのだとすれば、未だに追憶の中の母さんを求めたりはしない。俺としては複雑だが、新しい女でも見つけた方が今の親父にとっては良いのではないかとも思う。

 それほど、こうしてたまに見掛ける親父は、生気がない。母が死んだあの日から、死人の様に生きているだけだった。

 俺達二人を生かす為に精一杯稼いでくれている事に関しては、感謝している。だけど、もう少しどうにかならないものなのか、とも思うのだ。

 この人は今、誰の為に生きているのか、自分でさえもわかっていない。それを見ているのは、正直辛いものがあった。

 ただ、こればっかりは俺がどう考えても変わらない。こちらの呼びかけになど、この男は答えないのだから。

 冷蔵庫からお茶を取り出して、ポットのまま直飲みをする。それから、親父の方を向いた。


「なあ、親父……いつまでこんな事続ける気だよ。あいつが可哀想じゃねーのかよ」


 あいつ、とはもちろん珠理だ。

 珠理は、こうして自分の父親が週に数回帰宅している事すら知らない。俺の知る限り、彼女は父親とは数える程しか会った事がないはずだ。それも、うんと小さな頃に、である。

 しかし、親父は何も答えない。それもわかっていた。このやり取りは、もう何度繰り返しているのか数えるのもバカバカしい程交わされているからだ。

 そして、親父がこの後に何と言うかもわかっている。

 

「……すまない」


 予想通りの言葉が返ってきて、俺はギリッと歯を噛み締め、荒々しく冷蔵庫の扉を閉めた。

 

「もう寝るよ。あんたも早めに寝ろよ。どうせあんま寝てないんだろ」

「ああ……ありがとう、依紗樹。おやすみ」


 殆ど親父の顔を見る事もなく、俺は珠理が眠る部屋へと戻った。

 これが俺達親子の会話だ。この五年くらい、この程度の言葉しか交わしていない。

 今更、変わるはずがなかった。

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