第11話 妹と伊宮さんの共通点

 その日は一日中伊宮さんの事を考え続けていた。

 家に帰ってからは、相変わらず珠理から『おかーさんは?』と訊かれてしまった事もあるだろう。ただ、それよりも彼女から聞いた話が衝撃的で、頭から離れなかったのだ。

 妹からの質問に、言葉を濁してやり過ごしつつも、俺はいつも通り家事と彼女の世話をする。料理、洗濯、最低限の掃除……正直、どれも得意ではない。好きでもない。慣れたわけでもない。ただやらなければならないから、やる。きっと主婦(夫)というのはこんな気持ちなのだろう。

 そんな事を考えながら、家事に取りかかる。しかし、どれだけ作業に没頭しようとも、頭の片隅にはずっと伊宮さんの言葉が残っていた。それと同時に、彼女のあの寂しげな笑顔も脳裏に蘇ってくる。

 そして、胸の奥がちくりと痛むのだ。


「何で急にお母さんなんだ?」


 妹を湯船に入れつつ、訊いてみた。

 訊いたところで答えなど返ってこないかもしれないが、純粋に疑問だった。そう、どうしてこれまで『お母さん』なんて一度も言わなかったのに、今になって急に言い出したのか──それも伊宮さんを見て──その理由が知りたかったのだ。

 もし、それが『お母さん』という単語を用いているだけで、別の人や物で代替可能なら、それで済ませるに越した事はない。本当のお母さんは、もうどこにもいないのだから。

 妹は湯船に浮いているあひるで遊びながら、うーんと唸った。


「シュリ、おかーさんいないから」

「え?」


 妹が何気なく言った言葉に、ぎょっとする。

 それは、予想もしていなかった言葉だった。彼女が『お母さん』という存在を認識していながら、それが自分の家にいないと思っているとは考えていなかったのだ。

 今まで、俺から母親の話をした事はない。保育園でも、木島夏海さんが気を利かせてくれているので、親云々の話はしていないだろう。

 だが、彼女ももう五歳だ。保育園に送り迎えをする周囲の家庭と自分の家庭が異なる事に気付いていたのだろう。そして、周囲の友達に当たり前にいる『お父さん』と『お母さん』がこの家にいない事についても。

 だが、珠理はこれまでそれを一度として口にしなかった。てっきりその存在を認識していないものだと思っていたのだが、違ったのだ。

 それを言わないのは、きっと──俺が意図的にその言葉や存在を隠していたからだろう。頭の良い妹は、その空気感を察して黙っていたのだ。


「おかーさんいないから……おかーさんと遊んでみたい」


 その言葉を聞いて、やっぱりな、と自分の予想が正しかった事を確信する。

 珠理はおそらく、随分前から自分の家庭環境が周囲と異なる事を察していた。それでいて、何も言わなかったのだ。

 そして、自分にお母さんというものが存在しない事を知った上で、伊宮さんを『おかーさん』と呼んだのだろう。そこに、彼女なりの理由があって。


 ──五歳児、恐ろしいな。


 数年前まで言葉も満足に話せないちんちくりんな生物だったのに、いつの間にか兄に気を遣うという事すら覚えていたらしい。さすがは我が妹だ、と鼻が高くなる一方、こうしてどんどん大人になっていくんだろうな、と少し寂しい気持ちになった。


「……なあ、珠理」

「んー?」


 妹は湯船の中で黄色のあひるを沈んだり浮かべたりしながら遊びつつ、俺の呼びかけに耳を傾けていた。


「何で伊宮さん……この前、スーパーで見掛けたお姉ちゃんを、おかーさんって呼んだんだ?」

「おかーさんの匂いがした!」


 妹は満面笑顔でそう言った。

 毎日一緒の教室に通っているが、俺は彼女の匂いなど嗅いだ事もない。いい匂いがしそうなのは何となくわかっているが、それがどんな匂いかなど想像もつかなかった。


「そっか……おかーさんの匂いがしたのか」


 俺はそうオウム返しで応えながら、湯船に浮いているカエルの浮き物を沈めて、浴槽の下で手を離す。カエルの浮き物は、アルキメデスの原理に従って浮力で水面へと飛び出た。

 妹はそれを見てきゃっきゃと喜ぶ。


 ──本能的、なものなのかな。


 どうしてか妹は、保育士である木島さんについては母とは言わず、俺と同じ制服を着た女の子をお母さんと呼んだ。

 だが、先程の言葉からもわかる通り、珠理はおそらく、母親という概念についてある程度理解している。それが自分に存在しない事も、他の一般家庭には存在している事も。だからこそ、一度お母さんっぽい事を誰かにして欲しかったのだろうか。


 ──あれ?


 そこで、先程聞いた伊宮さんの過去についての話を改めて思い出す。

 彼女も物心ついた時には、両親がいなかった。

 生まれて間もない頃に両親が離婚し、父とは会った事がなくて、母は病気で死去した。その為、父の記憶も母の記憶もない。だから、母親役は演じられないと言っていた。


 ──でも、それって……うちと殆ど同じじゃないか?


 うち、というより珠理だ。伊宮さんと珠理は、状況がかなり似ているのだ。親父は珠理が起きている時には帰ってこないし、母も生まれた時には死んでいた。彼女にも、父の記憶と母の記憶がないのである。

 経緯は異なるかもしれないが、父母の記憶や想い出がない事で、二人は共通している。またとない程、共通してしまっているのだ。

 きっと、珠理はその父母との想い出らしきものが欲しいのではないだろうか。周囲の友達から、家族の想い出を聞いたのかもしれない。無論、それがどんな内容かもわからない。

 だが、もしかすると──俺が気付いていなかっただけで、彼女は内心で寂しがっていたのではないだろうか。

 伊宮さんの言い分はわかる。自分が母親というものを知らないから、それを演じる事ができないという言い分は真っ当だ。

 しかし、本当のところ、実はそれはそれほど重要ではないのではないだろうか。

 珠理が持っている寂しさ。それを理解してやれるのは、伊宮さんしかいないのではないだろうか。そこに、母親としての正解などは、重要ではない。ただ、理解できるかどうか、である。

 それでいうと、俺は珠理の事を理解してやれない。なぜなら、俺には十一歳の頃まで、母親という存在がいたからである。普通の家庭の様に、父親もいて、遊んでくれていた。父母がいたらしてもらいたかった事など、想像もつかないのだ。

 そして、珠理が伊宮弥織を『おかーさん』と呼んだ事に関して……珠理は、その〝匂い〟を伊宮さんから感じたのではないだろうか。自分と同じものを持つ者として。


 ──明日、もう一回話してみてもいいかもしれないな。


 気が重いけども。胃が痛くなるけども。今度こそ嫌われてしまうかもしれないけれども。

 それでも、俺はこの問題を、何故かスルーできなかった。どうしてか、伊宮さんの事が頭から離れないのだ。それに、別れ際の彼女の表情を思い浮かべると、彼女もあのままではダメな気がした。

 ただのエゴかもしれない。だが、俺は伊宮さんも放っておけないと思う様になっていた。

 それは、珠理と伊宮さんが、どこかで重なって見えてしまっているからなのだろうか。それとも、別の感情を彼女に抱いてしまっているからだろうか。

 今の俺には、そこまで考える程余裕はなかった。

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