第45話 二つの手のひら(第一部・最終話)
軽蔑などするはずがない──俺を見据えるその視線は真剣そのもので、その瞳からも弥織の気持ちが伝わってくる。
どうして彼女が俺の事をここまで気にかけてくれるのか、その理由はよくわからなかった。
だが、理由などもうどうでもよかった。ここまで俺の事を気にしてくれている人が身近にいるのが、素直に嬉しかったのだ。俺の事を気にかけてくれる人など、母さんが死んでから誰もいなかったから。
「わかったよ。っていうか……こんなにちゃんと〝おかーさん〟やってもらってるなら、話しておかなきゃダメだよな」
俺は大きく息を吐いて、一度深呼吸をしてから、自分の感情を吐露してみる事にした。
まずは親父の事から話した。
母さんがいなくなってから親父が家庭を省みなくなって仕事に逃げている事、珠理の事を全部俺や祖父母に投げている事、自分の所為で母さんが死んでしまったと責任を感じている事。それから、俺に対して謝ってばかりな事や、自分の娯楽を全て捨て去っている事、体を壊してしまうのではないかと思う程働いている事──話せる限りの事は、全て話した。
同級生の女の子に情けない父親について話すのは気が引けた。だが、彼女は知っておく必要があると思った。もう、珠理にとっても俺にとっても彼女は大きな存在で、半分家族の一員の様になってしまっているのだから。
俺はそのまま、珠理についても話した。珠理について、というより、この〝おとーさん〟と〝おかーさん〟の危うさについてだ。これはいつまでも続く魔法ではない事、珠理が今より大人になってしまった時に傷付いてしまうであろう事、そしてその時、弥織まで傷付いてしまう可能性についてまで俺は話した。
弥織は俺の話を静かに聞いてくれていた。意見するでもなく、ただ時折相槌を打ちながら、聞き役に徹してくれている。彼女の表情からは、何を思っているのかは全く読めなかった。
それから俺は、心の何処かで珠理を重荷に感じているという事についてまで話した。
その象徴が今度の林間学校だ。たった一日だけでも親代わりの役目から解放されて、純粋な高校生に戻れる事を楽しみにしてしまっている。
せっかく〝おかーさん〟を快く引き受けてくれているのに、〝おとーさん〟がこんな状態では幻滅されるかもしれない。話すべきではなかったのかもしれない。
だが、それでも俺は包み隠さず話した。
彼女に訊かれたから、というより、もう俺自身、自分の中でいっぱいいっぱいになってしまっていたのだろう。誰かにこの苦しみを吐き出したかったのだと思う。
誰かに吐き出したかったけど、誰にも吐き出せなかった。だが、それを唯一吐き出せる相手が、この伊宮弥織だった。
一緒に〝おとーさん〟と〝おかーさん〟をやって、ある程度俺の立場や状態もわかってくれている彼女だからこそ、俺は話せるのだと思う。むしろ、彼女以外には話せない。
この話を聞いてどう感じるか、何を思うかは彼女の領分だ。そこに俺がどうこう言える権利はない。俺が不安に感じたとしても、どれだけ恐れたとしても、彼女が俺を軽蔑するというのなら軽蔑するだろうし、軽蔑しないのならしないのだろう。
彼女がどういう人間で、俺が彼女にどう思われているのか──詰まるところ、それだけの話なのだ。
「な? 最低だろ?」
俺は一通り話終えると、自嘲的な笑みを浮かべた。
「俺は、あれだけ大事にしてる妹を……俺しか頼る事ができない妹を、どっかで疎んでてさ。面倒を看るのも疲れたってどっかで思ってるんだ。もっと自由になりたくて、もっと皆とも遊びたいって思ってて……たった一泊でも妹から解放されて皆と遊べるって思うと、それだけで楽しみに思えててさ。でも、そんな事思っちゃうなんて……最低、だろ」
眉間を押さえて、顔を伏せる。言っている途中に、自己嫌悪に圧し潰されそうになった。
思っているのと言葉に出してみるのとでは、圧倒的に重みが異なる。こんなに酷い事を考えていたのかと自覚した瞬間、自分の醜悪さに耐えられなくなった。できるなら、言った言葉を全部拾い集めて、口の中に戻したい。
しかし、言ってしまった言葉はもう戻せない。それに、これは紛れもなく、自己欺瞞をし続けて隠し続けてきた俺の本音なのだ。
それでも俺は、きっとこの本音を誰かに話したかったのだと思う。まるで懺悔室で告解する様に、誰かに罪を許して欲しかったのだ。
妹を大切に想っているのに、心の何処かで枷と感じてしまっている事──これはきっと、誰にも言えなかった、俺の罪なのだから。
「育児から解放されて皆と遊びたくなる、かぁ……」
弥織は暫く黙っていたかと思うと、そうぽつりと漏らした。
彼女の目にもさぞ間抜けで甲斐性がない男だと映っただろう。なんと叱られるのか、どんな落胆と失望の言葉を投げかけられるのか──そう思っていたが、彼女の口から出てきた言葉は、意外なものだった。
「でもさ、それって本当のお父さんとお母さんも同じなんじゃない?」
「え?」
「私はお父さんとお母さんがいないからわからないけど……でも、きっと皆そうなんじゃないかなって、今の話聞いてて思ったよ?」
そんな言葉が出てくるとは思ってもいなかった。
珠理ちゃんの味方はあなただけなのにどうしてそんな酷い事を、ともっと非難されたり、罵られる事を覚悟していたのだ。
「なんで、そう思うんだ?」
「ううん……なんでって訊かれると困るけど、人間ってそんなに強くないと思う」
「強くない?」
「うん。誰だって疲れる時もあるし、弱音を吐きたくなる時もあるよ。それが溜まれば、嫌になって全部投げ出したくなっちゃう時もあるんじゃないかな。皆そこを、上手く息抜きしたり誤魔化したりして、調整して乗り切ってるんだと思う」
少なくとも私はそうかな、と弥織は困り顔で笑って付け足した。
「だから私、前から結構言ってたじゃない? ちゃんと休んでねって」
そういえば、そうだった。俺が弥織の朗読で眠ってしまった時も、ゆっくり休んでと言ってくれていた。
それに、弥織が週に何度か家に来る様になってから、俺の体は驚く程楽になった。妹の面倒を少し見てもらえるだけで、これだけ色々楽になるのかと感動した程だ。
「もしかして、それ見越してて、色々手伝ってくれてたのか……?」
俺の問いに、弥織は「それはどうだろう?」と笑って誤魔化した。
だが、今の言葉を聞くと、そうとしか思えなかった。
彼女が珠理の送り迎えを手伝ってくれた事、帰りに一緒にスーパーに寄ってくれて、献立を考えてくれた事、時間が許せば家まで来て夕飯を作ってくれた事、土日は休日を潰してまで珠理の相手をしてくれていた事。まだ数週間だが、俺はそれで、随分心身共に楽になっていた。
てっきり珠理の為を想ってしてくれていると思っていた彼女の行動が、まさか俺の体も慮ってくれていたとは。そんな事、露ほどにも思っていなかった。
「でも、前から思ってたの。依紗樹くんって、少し前の私みたいな追い詰められ方してるなって」
「俺が?」
自分を指差して訊くと、彼女はこくりと頷いた。
「私は知っての通り、両親がいないじゃない? 小学生の頃は、それで同級生とかその親からも色々陰で言われた事もあって……よくトイレでこっそり泣いてたの」
弥織は過去を懐かしむ様に、目を細めていた。
だが、きっと笑える話ではない。そして、これはよくある話であるとも言えた。
幼少期の彼女は、主婦の井戸端会議の話のネタにされていたのだろう。それは俺にも何となくわかった。
珠理が通っている保育園ではあんまりそういった事はないが、皆無というわけではない。高校生の兄が送り迎えをして、その父親が来ない事でコソコソ何か言っている奴等がいる事を俺も知っている。珠理自身はまだ幼いからよくわかっていないかもしれないが、それが小学生にもなると別だ。
大人が何を言っていて、そこにどんな意味があるかは何となくわかる様になる。特に、弥織の場合は母が病死して父が行方知れずだ。井戸端会議のネタとしては、恰好の的だったのだろう。
「だから私、そんな人達に文句を言わせない様にって色々頑張ったよ。勉強も、スポーツも、お料理も、家事も……中には苦手な事もあったけど、『お父さんとお母さんがいるあなた達より優秀だ』って証明したくて。今思えば、あの頃は結構無理してたかな」
才色兼備で完璧な美少女こと伊宮弥織の原点を垣間見た気がした。
彼女はただ、周囲の視線を跳ねのけたくて、ガムシャラに頑張っていただけだったのだ。もともと勉強や料理ができる才女なのではなく、それらを全て努力で補ってきたのである。
「あの時の私は、自分の味方は自分だけだって思ってたの。誰も助けてなんてくれない、自分でやるしかないって。だから余裕も全然なくて……周りとも自然と距離を置いてたんだと思う」
誰かさんみたいにね、とこちらをちらりと見て笑った。
今では周囲に女友達が多い彼女ではあるが、意外にも小学生の頃はぼっちだったのだと言う。周囲を敵とまでは思わなかったが、それこそ友達がいると流されて頑張れなくなると思っていたそうだ。
その考え方は、俺にも身に覚えがあった。
「でも、それで自分が無理してる事にも気付いてなくて、結局一回パンクしちゃったの」
「パンク?」
「うん。急にね、何もできなくなっちゃった。したくなくなったって言った方が正しいのかな。何の為に頑張ってるんだろうって思っちゃって」
小学生の頃の話だけどね、と弥織は付け足した。
結局、自分でもとうに限界を超えて無理をしてしまったが故に、精神の方が悲鳴を上げてしまったのだろう。
それから彼女の祖父母は、そんな事の為に頑張らなくていいと言ってくれたそうだ。彼らは孫の努力は知っていたが、そこまで自分を追い詰めていたとは思っていなかったのだと言う。
それ以降は、無理のない範囲で頑張りをキープしつつ、友達とも遊ぶ様になった。今の伊宮弥織は、そうした経緯を経て形成されたものだったのだ。
「状況は全然違うかもしれないけど、依紗樹くん、その時の私と少し似てる感じがしてたから。結構前から心配してたんだよ?」
「そうだったのか……」
弥織は困り顔で俺を見る。
言われてみれば、少し似ているのかもしれない。
俺自身、もう誰も手伝ってくれないと思っていた。珠理の事は全部俺がやるしかないと思っていて、親父も祖父母も頼れなくて、俺がこいつを育てるんだくらいに思っていた。
だからと言って、成績を落とすわけにもいかない。目を擦りながら意地で勉強をする中、削れるものを削ろうという事で、真っ先に削り易かった友達や青春を削った。
だが、俺は無意識のうちに無理をしていたのだろう。もしかすると、とっくにそのリミッターを超えていて、弥織はそんな俺に、過去の自分を重ねていたのかもしれない。
「……休んだり息抜きしたりするのって、悪い事じゃないのかな」
「悪い事じゃないよ。たまには〝おとーさん〟も〝おにーちゃん〟もやめて、ただの依紗樹くんになったって良いんじゃないかな」
「ただの俺、か」
ただの自分って何なのだろう、とこの時思い返してみる。
珠理が生まれてから、本当の自分なんてものはさっぱりと見失ってしまっていた。将来の夢なんて考える暇もなかったし、今何がやりたいなども考えない様にしていた。
だが、今言われるとうっすらとわかってくる。
友達と遊びたいと思ったり、青春したいと思ったりするなど、密かに抑圧していた感情こそが、〝ただの真田依紗樹〟なのだろう。
「ちょっとの間、珠理ちゃんには寂しい思いをさせちゃうかもしれないけど……休んだ分しっかり遊んであげれば、きっと珠理ちゃんならわかってくれるよ。だって、依紗樹くんの事大好きだもん」
「そうなのかな……」
わかってくれるのだろうか。楽をしてしまっていいのだろうか。ちょっとだけ、休んだり気晴らしをしても良いのだろうか。
それはしてはいけない事だと思っていた。悪い事だとも思っていた。
だが、弥織の微笑みを見ているとそれさえも許してもらえる気がしてくるから、不思議だった。
「それに、私の事ももっと頼ってくれていいよ。私も一応〝おかーさん〟なわけだし」
「いや、でもそれは……これ以上はちょっと申し訳ないっていうか。十分助けられてるし」
保育園の送迎に、料理。その他土日の〝おかーさん〟活動。これ以上ないくらい、彼女は手伝ってくれている。
「私だって、珠理ちゃんと遊ぶ事で、色々良い事もあるから」
「良い事?」
「うん。純粋に珠理ちゃんの為だけかっていうと、そうじゃないのかもね」
弥織はベンチから立ち上がってこちらを振り向くと、悪戯な顔をして見せる。
「え? なにそれ。他に何かあるの?」
「さあ、何でしょう?」
弥織はすっとぼけたままゲートの方へと歩いて行くので、俺も慌てて後を追う。
「おい、教えろよ」
「えー、やだ。教えない」
夕陽を背にくすくす笑う弥織はどこか楽しそうで、そんな彼女を見ているとこちらの胸も暖かくなってくる。
そして、自分が先程まで抱いていた胸の中の
「ほら、そんな事はもういいから、早く行こ? 珠理ちゃんのお迎え、遅れちゃう」
「あ、おい──」
不意に弥織が俺のもとまで戻ってきたかと思うと、彼女は俺の手を取って歩き出した。
春の少し肌寒い夕方。柔らかい感触とほんの少しのあたたかさが、重なり合った手のひらから伝わってくる。
彼女は前を向いているので、どんな顔をしているのかはわからない。揺れる髪の隙間からちらりと見える耳が赤い気がするのは、夕陽のせいだろうか。
今の弥織は、〝おかーさん〟なのか、それとも、〝ただの伊宮弥織〟なのか、一体どっちなのだろう──?
ふとそんな疑問が浮かんでしまい、俺はそれを確かめたくなった。その為に、繋がれた手を敢えて一度離す。
「えっ……?」
弥織が驚いてこちらを振り返る。その表情は、どこか悲しそうでもあった。
「手、繋ぐなら──」
俺はもう一度彼女の手を取って、続けた。
「こっちの方がいい、かな」
そして、今度は指もしっかりと絡ませてから、軽く握り込んでみる。
互いの指が絡まり合って手を繋ぎ合う、所謂恋人繋ぎだ。
「あっ……」
弥織が小さく声を漏らした。
きっとこれで、今弥織が〝おかーさん〟なのか〝ただの伊宮弥織〟かがわかると思った。
彼女もその意図を察したのだろう。顔をかぁっと赤く染めると、それを隠す様に下を向いてしまった。
そのまま暫く無言の中、彼女の返事を待つ。
「うん……私も、そうかも」
弥織は上目でちらりとこちらを見て、俺の手をそっと握り返す。
彼女の細い指から感じる、確かなあたたかみと確かな意思。それに安堵して、彼女の手をもう少し強く握った。
俺達は互いに恥ずかしそうな笑みを交わすと、そのままゲートに向かって歩き出す。
その間、会話はなかった。だけれど、胸が痛い程高鳴っていて、どうしようもない程に満たされた気持ちになっていた。
ちらりと彼女を見ると、彼女もこちらを見ていて、目が合う。互いに驚いて視線を逸らすが、それでも手は繋がれたままだった。
むず痒くて、どうしていいかわからない。だけれど、どこか嬉しくて、幸福感に満たされた時間だった。
今この場に珠理はいない。珠理がいないと、俺達は〝おとーさん〟でも〝おかーさん〟でもなくて、ただのクラスメイトに過ぎないはずだ。
だが、俺達の手は繋がれている。ただのクラスメイトで終わる関係ならば、きっとこうして手までは繋がないはずだ。〝ただの真田依紗樹〟と〝ただの伊宮弥織〟は、こうする事を望んでいたのである。
もし、珠理の魔法が解けてしまったとしても、俺達はガラスの靴を残せるのではないか──重なった二つの手のひらからそんな希望を感じ取ったのは、きっと俺だけではないはずだ。
【第一部 了】
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