第37話 一緒に登園

 翌日の朝、保育園までいつも通りに珠理を送り届けていると──これまた、いつもと違う事が起こった。


「依紗樹くん、珠理ちゃん、おはよう」


 何と、弥織が通園中の道路でわざわざ待っていてくれたのだ。

 朝から弥織と会えると思っていなかった珠理は、「おかーさん!」とテンション爆上がりである。

 〝おかーさん〟のお腹にタックルでもするかの様な勢いで抱き着く珠理。弥織はそんな彼女の頭を優しく撫でながら、優しい笑みを浮かべている。

 ここ数日でわかった事だが、きっと彼女は子供が好きなのだろう。『母親としての正解』を知らなくとも、それであれば問題がない。というより、子供が好きかどうかの方が大切な様に思える。


「どうしたんだ、急に。驚いたよ」

「ああ、うん。昨日、私が家まで行かないって知ったら、珠理ちゃん凄く落ち込んでたでしょ? だから、朝だけでもこうして会ってあげたいなって思って」


 そうなのだ。昨日、珠理はおかーさんが迎えに来てくれたものだから、そのまま家まで来てくれると思っていたらしい。

 しかし、昨日は弥織の都合が悪く、彼女が家で夕飯を作らなければならない日だった。それを伝えると、珠理はこれでもかというくらいしょぼんとしていたのである。

 無論、彼女はそれで文句を言う子ではない。ただ、見ているのが可哀想になるくらい落ち込んでいた。

 弥織のレシピ通りに作った夕飯も、個人的にはめちゃくちゃ美味しかったのだけれど、珠理は寂しげに食べていて、感想らしい感想はなかった(俺がめちゃくちゃ落ち込んだ)。

 弥織に言うと責任を感じると思ったから敢えて伏せていたのだが、別れ際の珠理の表情から色々察していた様だ。


 ──その為だけに、わざわざ早起きして遠回りして保育園の前まで来てくれたってか。どれだけ珠理想いなんだよ。


 俺は嘆息して歩き出すと、珠理が「おとーさん!」と俺を呼んだ。

 振り向くと、彼女は自分の左手を俺の方に差し出した。右手は既に弥織と繋いでいる。

 珠理のやりたい事を察して、俺はその小さな手を取ってやる。

〝おとーさん〟と〝おかーさん〟と並んでの登園。周囲を見ると、父母どちらにも手を繋がれて登園している親子は殆どいない。お父さんかお母さんどちらかに手を引かれている子供が大半だ。

 もしかすると、珠理はこうして三人で手を繋いで登園する事に、どこか憧れを持っていたのかもしれない。


「あら、おはようございます。今朝は一緒なんですね!」


 木島先生が俺達を見つけるや否や、悪戯げに笑って挨拶してくる。

 俺と弥織が朝から顔を赤くしたのは言うまでもない。


「あー、はい。昨日珠理が落ち込んでたので、わざわざ来てくれたみたいで。今日も宜しくお願いします」

「そうなんですね! 珠理ちゃん、優しいおかーさんで良かったですねー」

「うん! おかーさん優しくていい匂い!」


 匂いは関係ないんじゃないか、と思ったが、子供の言う事なので、スルーした。


「じゃあ、今日も珠理の事宜しくお願いします」


 俺が頭をぺこりと下げると、それに倣って、弥織も頭を下げる。なんだか、本当に夫婦でお願いしてるみたいだ。


「はーい、じゃあ珠理ちゃん、おとーさんとおかーさんも学校頑張ってねって言ってあげなきゃ」


 木島先生に促されて、珠理から「行ってらっしゃい! がっこう、がんばってね!」と今度は俺達が送り出される。

 木島先生と珠理に見守られながら保育園を後にすると、弥織が大きく息を吐いた。


「どうした?」

「き、緊張した……」


 どうやら、緊張していたらしい。


「なんで? 迎えは平気だったのに」

「だって、周りにいた保護者の人達は、当たり前だけど本当のお父さんとお母さんばかりじゃない? 昨日と空気も違って、ちょっとぴりってしてる感じがしたし」

「なるほど、言われてみればそうかもな」


 当たり前の様に毎日送り迎えをしているので気にならなかったが、朝に園児を送っている親御さんと、昨日残ってお喋りをしていた親御さん達では顔つきが若干異なる。

 朝に園児を送る親御さんの中には、スーツ姿のお父さんもちらほらいる他、仕事前だからか表情も引き締まっていた。一方、昨日保育園に残っていたお母さん達は、ママさん同士でお喋りをする余裕が層だ。所謂、パートタイム勤務のママさん方である。

 この保育園は、親御がパート勤務でも子供を預ける事が可能だ(入園には何かしらの審査基準があるそうだが、俺はそこまで詳しくない)。パート勤務のママさん方はフルタイム勤務の人よりもまだ余裕があるのか、お母さん同士で少し話している事が多い。

 弥織が昨日のお迎えでそこまで緊張しなかった理由も、そのあたりにあるのかもしれない。そもそも昨日は初めてのお迎えそれ自体に緊張していて、そこに緊張する余裕すらなかったのかもしれないけれど。

 ちなみに、フルタイムで働いているママさん達は、俺みたいにそのまますぐに帰ってしまう事が多い。喋っている時間と体力の余裕がないのだ。

 とはいえ、保育園を利用している人で、時間や体力的に余裕のある人は少ない。世間話をしていたママさん達も、ほんの少しの息抜きをしているに過ぎないのである。


「うん……こんな血縁関係も何もない高校生の私がいていいのかなって、急に不安になっちゃって」

「それなら大丈夫だよ」


 俺がすぐにその不安を否定すると、弥織は「えっ」と驚いて顔を上げる。


「血縁なんて関係ない。血が繋がってる父親だって一度も珠理と一緒に登園した事がないんだ。あいつよりも……断然、弥織の方がちゃんとしてる」

「依紗樹くん……」


 弥織は眉をきゅっと寄せて沈痛な面持ちで俺を見るが、それ以上何も言ってこなかった。

 迎えに行くのは仕事で遅いから仕方ないにせよ、朝の送りは本来であれば親父の仕事のはずだ。お金を稼いでくれるのは有り難いが、珠理の何もかもを任せられては、正直こちらも堪ったものではない、とやはり心の何処かで想ってしまう。

 今はまだ珠理が幼いからこれでもいいのかもしれない。しかし、小学校に入れば、子供も知恵をつけてくる。いずれ自分の父親の存在と向き合わなければならない時が絶対に来るのだ。

 その時に、誰が父親かをちゃんと認識できていなくて傷付くのは珠理だ。どうして俺よりも大人のくせに、そんな事もわからないのかと苛立ちを覚えてくる。


 ──糞ッ!


 拳をぎゅっと握り締める。

 せっかく、弥織が朝の登園に付き合ってくれてこれから登校だと言うのに、父親の事を思い出して気分が一気に下がった。

 俺は普段、親父についてはなるべく考えないようにしている。考え出すと、こうして苛立ちが止まらなくなるからだ。

 珠理の前で怒ったり苛々しているところを見せたりするわけにもいかない。父親はATMとして生活費を振り込んでくれる存在程度に考えておかないと、やっていられないのである。

 来年からの珠理の小学校の事はどうする? 小学校の授業参観は? 俺の進路や三者面談の事は? 父親のくせに、逃げている事が多すぎるのだ。


 ──母さんが死んで辛いのは、お前だけじゃねえんだぞ……!


 手のひらに爪が食い込まん勢いで拳を強く握り締めた時──ふわっと暖かくやわらかいもので俺の手が覆われた。

 驚いて手を見ると、弥織が両手で俺の拳を包んでいたのだ。


「そんなに思い詰めないで。私も協力できる事ならするから。ね?」


 彼女から優しく微笑み掛けられると、俺の胸のうちにあった刺々しい感情が一気に洗い流される。

 握り込んだ拳を解放すると、弥織が自分の両の手のひらで俺の手を包んだ。手の甲は彼女の左手で、手のひらは右手で包み込まれている。

 予想外の行動に、思わず固まってしまう俺である。


「落ち着いた?」

「ああ……うん。ありがとう」

「どういたしまして」


 弥織はそう言うと、俺の手からその両手を離した。

 その暖かさが恋しくて、なんだか寂しくなってしまう。


「学校、いこっか」

「ああ……悪い。あんまりゆっくりしてると遅刻しちまうな」


 どこか気恥ずかしくて、でも嬉しくて。そんな何とも言えない気持ちを抱きながら、俺達は学校へと向かった。

 本当はもっと手を包み込んでいてほしかった。だが、そんな事を頼めるはずもない。

 今の俺達は〝おとーさん〟と〝おかーさん〟ではなく……ただの、クラスメイトなのだから。

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