第36話 木島先生の推察

「おかーさん!」


 保育園の入り口扉を開けて、俺が挨拶をする前にそんな声が聞こえてきた。

 小さな生き物がとてとてと走ってきて、隣の弥織のお腹あたりに抱き付いている。


「珠理ちゃん、いい子にしてた?」

「おかーさん! おかーさん!」

「ふふっ、そうだね。おかーさんだね」


 弥織は優しい笑みを浮かべながら、珠理の頭を撫でた。

 彼女は普段通り嫣然えんぜんとしているだけだと思うのだが、どうしてか珠理がいるといつもよりも優しく見える。そして、どことなく大人っぽくも見えてくるのだから、不思議なものだ。

 これは、弥織の母性メーターが上がっている時に見せる笑顔なのだろうか。そんな二人のやり取りを見ていると、それだけでこちらも頬が緩む。

 だが、その光景とは裏腹に、珠理の「おかーさん」発言に、同じくお迎えに来ていた周囲のママさん達がぎょっとした顔でこちらを見ていた。

 しかし、弥織が俺と同じ制服を着ていたのを確認するや、「ああ、そういう事」と何やら納得した様子で微笑ましげに眺めている。何が『そういう事』なのかさっぱりわからないが、変な誤解は生まれずに済んだ様だ。さすがに弥織が親父の第二の妻と思われるのは嫌だ。

 うちに母親がいない事も周囲のパパさんママさんは知っているし、いつも迎えに来るのが高校生の兄だというのも知っている。本当の母親でも義母でもなく、学校の友達か何かだと察してくれたのだろう。


「じゃあ、俺ちょっと先生に挨拶してくるから、ここで待ってて」


 俺の言葉に、弥織は「うん」と頷き、珠理が「おとーさん、いってらっしゃーい!」と付け足す。


「……頼むから、保育園でおとーさんはやめてくれ」


 周囲のママさん達からくすくすとした笑い声が聞こえてきて、一気に赤面した。

 きっと、学校の友達と大袈裟な御飯事をさせられている事を察してくれたのだろう。ただ、どうしても恥ずかしさは感じてしまう。それは弥織も同じ様で、何ともない様な顔をして珠理と遊んでいるが、頬をほんのり上気させていた。


「あれが噂のおかーさんですか!」


 そんな吃驚きっきょうの声が聞こえてきたかと思えば、珠理のクラス担任こと木島夏海が奥の部屋から出てきていた。玄関が騒がしいので何事かと思ったのだろう。


「あ、先生。どうも、今日もありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそですー。それにしても、依紗樹さん、やりますね」


 木島先生がニヤニヤして俺の脇腹を肘で小突いた。


「へ? 何がですか?」

「なーにしらばくれちゃってるんですかぁ! カノジョさんに妹の『おかーさん』役をさせるなんて、なかなかそんなテクニシャンいませんよ?」

「はあ⁉ か、カノジョ⁉」


 何を言ってやがるんだこの保育士は。

 弥織に聞こえていないか慌てて彼女の方を見るが、彼女は彼女でママさん達から話し掛けられている様で、ほっと安堵の息を吐く。


「これはまさかあれですか? 同級生のカノジョにバブみを求める為の新たなプレイでしょうか⁉ 最近の高校生ってそんなプレイしてるんですね!」

「バブみゆーな。しかもそんなプレイはしてない」


 先生で年上だが、もはや敬語を使う気すら無くしてツッコミを入れる。

 しかし、ここでもバブみ疑惑を持ちかけられてしまうのか、俺は。全く、ひどい誤解である。


「それにしても、やりますねえ。妹を使ってあんなに綺麗なカノジョさんをゲットするだなんて。芸能人か何かですか、あの子は」


 ちょっと反則ですよあれは、と木島先生はうんざりとした顔をする。

 何が反則なのかさっぱりわからない。可愛いとは思うけども。


「だから、違いますって。カノジョじゃなくて、しかも芸能人でもなくて、ただの同級生ですから」

「えー? ほんとですかぁ?」


 全く信じる気のない木島先生。どこか訝しむ様な表情のまま、俺と弥織を見比べる。


「だって、おうちに来てくれて、しかもご飯まで作ってくれたんでしょう? それに、こうして一緒にお迎えまで……そんな事まで、ただの同級生がやってくれますかねー?」

「なッ⁉ どうしてそれを⁉」

「珠理ちゃんが『昨日と一昨日はおかーさんが家に来て楽しかった』ってさっき皆さんに話していましたよ」

「ぬお……やはり犯人は珠理か……」


 おのれ、珠理め。何という事を言ってくれるのだ。しかも他のママさん方にもそれを話してしまっていたらしい。

 なるほど、それで弥織のところにママさん達が集まって来ているのか。納得である。

 しかし、同級生がそんな事までしてくれるわけがないと言われても、本当にそんな事までしてくれているのだから、俺にはそうとしか言えなかった。


「いや、ほんとに違うんですって……あの子が優しいだけで、ただ珠理のお願い叶える為に手伝ってくれてるだけなんですよ」

「え? まさか、依紗樹さん……それだけの理由で、高校生の女の子がわざわざそんな大がかりな御飯事に付き合ってくれてると、本気で思ってるんですか?」


 どこか呆れさえも感じさせる顔で、木島先生は言った。


「え? 他に何かあるんですか?」

「はあ……いえ、何でもありません。色々大変そうですね、あの〝おかーさん〟も」


 その若い保育士の先生は大きな溜め息を吐いて、入口にいる弥織を眺めた。


「それはそうと……依紗樹さんも先週よりも随分顔色が明るいですね? それも〝おかーさん〟効果なのでしょうか?」

「え?」

「おっと、いけません。お仕事が残っていますので、私はこれで」


 ほほほ、とわざとらしく笑いながら、木島先生は奥の職員室に逃げて行った。

 なんだか、今日の木島先生はよくわからない事ばかり言う。普段はもっとわかりやすい言葉しか言わないのだけれど。


「あ、お待たせ。じゃあ、行くか」


 弥織と珠理の元まで戻ると、何故か彼女は恥ずかしそうに顔を赤くしたまま、こくりと頷くのだった。

 一方、珠理は無邪気な顔をしながら俺を指を差して、こう言った。


「おとーさん、おかーさんのかれしー!」

「ちょッ──⁉」


 慌てて弥織が珠理の口を押さえようとするが、時既に遅し。身長差があった事も災いして、間に合わずに全ての単語を言い終えられてしまった。


「へ? どういう──」


 おとーさんが彼氏? いや、おとーさんはおとーさんだから彼氏ではなくないか? むしろおとーさんは彼氏の次になるもので、それも変だ。という事は、おとーさんとおかーさんをそれぞれ俺と弥織に変換して──そこまで考えると漸く意味がわかって、顔が一気に熱くなる。

 おとーさんがおかーさんの彼氏、即ち、俺が弥織の彼氏、という意味になってしまうのだ。


「ははは、はい⁉ 何で⁉ いつからそんな話になってんの⁉」

「違うの、違うから!」


 弥織も顔を真っ赤にしながら否定する。

 どうやら、彼女が一緒に珠理を迎えに来た事で、俺達が付き合っていて、それで珠理がおかーさんと弥織に懐いているのだと勘違いした様だ。

 そういったやり取りを聞いて、珠理が余計な言葉を覚えてしまったのだろう。


 ──なんちゅう心臓に悪い事を。


 ただ、それで先程ママさん達が弥織のところに集まっていて、彼女が恥ずかしそうな顔をしていた理由もわかってくる。


 ──迷惑な事だよなぁ。嫌な気持ちにさせちゃったかな?


 おそるおそる、彼女の顔を盗み見る。


「なあに?」


 まだ顔を赤らめたまま、少しむすっとした顔で訊いてくる。


「いや、嫌な思いさせたなら悪かったかなって……」

「別に……嫌な思いとかは、してない、けど」

「え?」

「な、なんでもない! なんでも!」


 声が小さく何と言ったかいまいち聞き取れなかったのだけれど、凄い勢いで否定されてしまった。

 結局その変な空気のまま俺達はスーパーまで一緒に行き、彼女に言われるがままに材料を買い込んだ。

 この〝おかーさん〟は、肉や野菜の値段等からおすすめのメニューを決めてくれる。何とも有り難いものだった。


「おい、あんまり難しいのだと俺作れないぞ」


 俺が使った事もない様な野菜まで入れるものだから、つい不安になってくる。


「後でレシピ送るから大丈夫だよ。もしわかんなかったら電話してくれていいから」

「わかった、助かるよ」


 買い物をしている間に先程の変な空気も収まって、いつもの俺達に戻っていた。


 ──って、一体何だろうな。


 何気なく思った言葉に引っかかる。

 いつもも糞も、俺達はちゃんと話し始めて数日だ。それなのに、そこにはと感じさせられる様な時間がある。

 それは、昨日一昨日をずっと一緒に過ごしたからだろうか。そして、このはいつまで続くのだろうか。


 ──三人で一緒に想い出を作る、か……。


 先程の弥織の言葉を思い出して、ふと珠理と手を繋ぐ彼女を見る。


 ──俺達は一体、どんな想い出を作っていくのだろうか。


 これだけ親しげに見えて、まだおかーさん生活は三日目。俺と弥織がちゃんと話し始めて、一週間も経っていない。

 三人で作れる想い出は、無限にある様に思えた。

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