第35話 犠牲ではなく想い出

「俺さ……友達を敢えて作らない様にしてたんだ」


 保育園までの道中──信号で立ち止まった時に、何故か俺は自分からそんな事を話し始めていた。


「どうして?」


 弥織が視線を信号から横の俺へと移した。少し意外そうな顔をしている。


「珠理がいたから、かな」


 俺は頬に彼女からの視線を感じつつ、そう返した。


「珠理ちゃんと、友達を作らない話がどう関係するの?」


 彼女は首を傾げて、重ねて訊いた。


「友達がいたらさ……そっちと遊ぶのが楽しくなっちゃうだろ。そしたら、家の事ができなくなるし、六時までに保育園に迎えに行く事もできなくなる」

「あっ……」


 俺の言わんとしている事に、彼女も気付いたのだろう。眉根を寄せて、俺から視線を逸らした。


「そっか……つらく、なっちゃうんだね」

「そう。きっと、億劫になる。それがわかってるから、友達を作らなかった……って、こんな話、しない方がいいよな」


 何となく話し始めたが、これは弥織の『おかーさん』の意欲を下げてしまうのではないか。そう思って彼女の方を見ると、彼女は首を横に振った。


「ううん、そんな事ない。もっと話して欲しい」


 その表情から俺への軽蔑の感情は感じなかった。むしろ、ちゃんと俺の事を見て理解しようとしてくれている様にも思えた。

 そんな彼女を見て安心したのか、それから俺は自然と自分の事を話していた。本当はもっと友達が欲しかった事、友達がたくさんいれば楽しかったでろう高校生活である事も。

 だが、俺には珠理がいる。彼女の面倒を看なければならない事を鑑みれば、その楽しさはいつか妨げになる事はわかっていた。

 友達がいれば、もっと遊びたいと思ってしまうだろう。遅くまでファミレスで話したり、カラオケに行ったり、ゲームセンターに行ったりして、遊びたいと思ってしまうに違いない。土日だって、家で妹の面倒ばかりでなく、外で遊びたいと思ってしまう。

 そして、友達がいればそうした遊びに誘ってくれるだろう。誘われる度、きっと俺は胸を躍らせるはずだ。

 しかし、それでも俺はその誘いを断らなくてはいけない。なぜなら、俺には面倒を看なければいけない五歳の妹がいるからだ。自分は遊びたいと願っているのにも関わらず、だ。


「実際に中学の時にも似たような事があってさ」


 信号が青に変わったので、二人して歩き出す。

 歩きながら、俺は何かを諦めた様に笑って、過去の事を話し始めた。

 中学の時は祖父母が珠理の面倒を見てくれていたけど、結局珠理は祖父母にはそんなに懐かなかった。

 そんな状況下では、遊びに行きたくても行けるわけがない。できるだけ早く帰らないといけないという使命感も相まって、友達からの遊びの誘いを断っていた。そして、断り続けているうちに、誰も遊びに誘ってくれる友達はいなくなった。

 それは寂しかったし、思っていた以上にキツかった。

 だが、同時に妹も大切で、俺は自分と妹を天秤に架けると、妹を選んでしまうのだ。それはきっと『珠理の事は任せた』という母からの最期の言葉も強く関係している様に思えた。

 ただ、そうした選択を自らで選んでいるはずなのに、自分の中で損をしているという感覚は意図せずどんどん強まっていった。そうした気持ちがこれ以上強まると、大切に想っているはずの妹を、守らなければならないはずの妹を、疎ましく思ってしまいそうで怖かったのだ。

 

「だから、かな……友達を作ろうとしなくなったのは」

「依紗樹くん……」


 弥織は眉をきゅっとして、辛そうな顔で俺を見ていた。 

 もっと上手く両立しようと思えばできる人もいるのかもしれない。だが、その結果として妹を疎ましく思ってしまうくらいなら、最初から友達なんていない方がいい──俺はそう判断したのだ。

 一人でいた方が気が楽だと思いたかった。クラスで誰とでも話せるけど、いなくても問題ない奴。それくらいの立ち位置な方が、自分も楽だと思いたかったのだ。

 去年の夏休みも、クラスの男子で俺だけ海に誘われないという事があった。これに関して、不平も不満もない。誘われなかった事で疎外感もあったし、寂しかったけれど、それは俺がそういう人付き合いをしてきた結果だ。それに、実際に誘われたところで海になんて行けるはずがなかった。

 その点、信也だけは例外だった。彼だけは程よい距離感を保ってくれるし、俺の事情もわかってくれているから、無理のない範囲で共に過ごしてくれる。

 俺が妹を迎えにいくまでの僅かな時間で遊びに行ったり、ダベりに付き合ってくれたりしていた。だが、妹の事があるとわかっているから、土日に誘ってくる事もなければ、放課後も俺が迎えにいくまでの時間の範囲内で付き合ってくれる。

 彼がどういう意図でそうした付き合いをしているのかはわからないが、俺にとっては付き合いやすい友達だった。


「……どうして私に話してくれたの?」


 保育園まであと少しというところで、弥織が浮かない顔をしてそう訊いてきた。

 いや、当然か。浮かない話をしてしまったのだから、浮かない顔にさせてしまうに違いなかった。


「さあ、何でかな? 多分、話したかったんじゃないかな」


 そう。きっと、俺は弥織に自分の事を知って欲しかったのだ。

 彼女とはまだ数日の付き合いだが、ある意味俺の家での顔まで曝け出してしまっている。今俺の周りにいる人で最も俺の事を知っているのは伊宮弥織と言っても過言ではない。その証拠に、寝不足である事や、実は疲れている事にも彼女には気付かれてしまっていた。

 そんな彼女に、俺の事をもっと知っておいて欲しかった。きっと、それだけなのだと思う。


「……ねえ、依紗樹くん」


 弥織は俺の方を向いて、その大きな瞳でじっとこちらを見ていた。その瞳はどこか悲しげで、寂しげだったとも思えた。

 彼女は俺を見据えたまま、言葉を紡いだ。


「どうして依紗樹くんは、自分だけそんなに我慢しようとしてるの?」

「えっ?」


 弥織の予想外の問い掛けに、困惑して思わず言葉を詰まらせてしまった。彼女の声色からは、やや俺を咎めるニュアンスもあったのだ。


「自分だけ我慢してればいいだなんて、そういうの好きじゃない」

「好きじゃないって言われても……そうするしか、ないだろ」


 俺だって我慢は好きではないし、できればしたくない。

 でも、他にやりようがなかった。自分を犠牲にするしかなかったのである。


「じゃあ、依紗樹くんはいつまで我慢しなきゃいけないの? 珠理ちゃんが小学校に入るまで? 中学を卒業するまで? 高校を卒業するまで? 成人するまで? ……その時依紗樹くん、いくつなの?」


 弥織の畳み掛ける様な言葉に、俺は息を詰まらせた。

 考えた事もない事だった。いや、或いは考えない様にしていたのかもしれない。それを考えると、きっと耐えられなくなってしまうから。

 珠理が中学を卒業するのでも、あと十年後だ。高校となれば、十三年後、成人だと十五年後。その時に、俺は……もう、三十を超えている。

 これまで俺の生きてきた年数が、そのまま倍近くになる様な年数。それは途方もない時間の様に思えた。


「ねえ……もっと、自分の事大事にしてよ。依紗樹くんの人生は、誰の為のものなの?」


 誰の為の人生なのか──それは、耳が痛過ぎる言葉だった。なぜなら、俺が親父に言いたかった言葉と同じものだったからだ。

 俺は知らずのうちに、親父と同じ様な生き方をしていたのかもしれない。


「あっ……ごめん」


 言葉を失っている俺を見て、弥織は心苦しそうに謝った。


「私、依紗樹くんの気持ちも考えずに、偉そうな事ばかり言ってた。忘れてって言っても、もう遅いよね……」

「いや……弥織の言った事は、正しいよ。ほんと、その通りだ」


 彼女の言った事は正しい。俺は今まで、その問題を見てみぬふりをしていたのだ。自己犠牲だけでその場を乗り切ろうとしていた。

 だが、彼女の言った通りこのまま自己犠牲を重ねて、珠理が成人した時に、俺に何が残るだろう? きっと、珠理の父親代わりをして育てた、という達成感だけしか残らない気がした。


「このままだと、良くない、よな……」


 俺がぽつりと漏らした言葉に、弥織が「うん」と頷いた。


「我慢しててもいつか弾けちゃうと思うし、その反動で珠理ちゃんの事が本当に嫌いになっちゃったら、元も子もないと思う。珠理ちゃん、あんなに依紗樹くんの事が大好きなのに……そんなの悲しいよ」


 彼女の言葉が突き刺さり、視線が自然と空から地面へと落ちた。

 彼女の言いたい事はわかる。むしろ、痛い程解っていた。

 自分だけが我慢していて良い事ではない事も、このままではいつか自分が破裂してしまう事も、破裂してしまえば本当に珠理の事が嫌いになってしまうであろう事も、解っている。そして、その時自分がどれほど自分を嫌悪するかであろう事も。

 だが、解決策が見えなかった。


「でもさ、どうしようもないだろ。あいつの世話できる奴いないし、あいつの世話をしようと思うと、俺は自分の時間を犠牲にしないといけない。そうだろ?」


 結局はこの問題に突き当たる。俺を犠牲にするか、珠理に嫌な思いをさせてまで祖父母に預けるか、その二択しかないのである。

 しかし、弥織は──首を、ゆっくりと横に振った。


「そんな事ないよ」

「は? 他に何が──」

「私いるでしょ?」


 えっと驚いて顔を上げると、そこには何処か自信に満ちている弥織の笑顔があった。

 自信に満ちているけれど、とても柔らかくて、慈愛に満ちた笑み。あどけないのに、聖母の様な母性も溢れている。その笑顔を見ているだけで、心が一気に温まっていく気がした。


「昨日みたいにお家で珠理ちゃん交えて一緒に遊んだりとか、ちょっと一緒に公園に行ってみる、とか。それなら私でもできるし、一緒に過ごせるじゃない? カラオケとか、ゲームセンターで夜遅くまでとか、そういうのは難しいかもしれないけど……珠理ちゃんも交えてできる事って、もっとたくさんあると思うの」

「でも……それだと、お前が色んなものを犠牲にする事になるだろ」


 ただでさえ、かなり犠牲にさせてしまっている様に思う。

 園児と言えども、高校生が面倒を見るのはかなり荷が重い。それは彼女自身もこの土日を通してわかっているはずだ。

 それに加えて、一緒にどこかに出掛けたりすれば、それこそ丸一日潰す様なものだ。周囲に色んな気遣いをする羽目になって、疲れだって溜まる。それが彼女にとって良い事だとは思えなかった。

 しかし、彼女は首を横に振る。


「犠牲にするんじゃないよ。一緒に想い出を作るの」

「想い出を……?」


 予想外な単語が出てきて、思わずオウム返しで訊いてしまう。

 意味がよくわからなかったのだ。


「うん。依紗樹くんと珠理ちゃんと一緒に過ごして、一緒に遊んで……そしたらそれはきっと、私達だけの想い出になるよ」

「俺達だけの、想い出……」

「そう。ちょっと普通の高校生らしい想い出とは違うかもしれないけど……きっとそれはそれで、すっごく素敵な想い出になると思わない?」


 弥織はとてもワクワクした笑みを浮かべて俺を見ていた。

 その笑顔を見ても、自分を犠牲にするなど微塵も思っていない事は明白だ。


 ──そういう風に考えられるのか、この子は。


 思わず、ぐっと瞼の裏が熱くなって、俺は思わず空を見上げる。

 自分一人で何もかも背負おうと思っていた。でも、どうしてかそんな俺に付き合ってくれようとする変わり者がいた。あまつさえ、それは犠牲ではなく想い出作りだと言い出す始末だ。変わり者であるにも程があると思えた。


「せっかくの高校生活だもん。一緒に想い出作ろ?」


 何も不安など感じさせない笑顔が、そこにはあった。

 きっと楽しい想い出が作れるに決まっている。占いや第六感などはあまり信じないけれど、そんな俺でもそう確信してしまった。それはまるで、楽しい想い出を保証するかの様な笑顔だ。

 確かに、珠理がいると一般的な高校生らしい想い出は作れないかもしれない。それは俺のこの一年が肯定していて、間違いない。

 だが、それをハンディキャップとして思い、全てを諦めるのは間違いだったのである。

 そもそも、今目の前にいる彼女だ。

 伊宮弥織──この子は、それこそ珠理がいたから繋がった。珠理が『おかーさん』とこの子を直感的に想わなければ、俺と彼女は近付く事もなかったと思うし、俺も近づけるとも思ってもいなかった。

 確かに、珠理がいたから作れなかった想い出もあるかもしれない。だが、同時にこうは考えられないだろうか?

 珠理がいるからこそ、普通の高校生が作れない想い出を作れる。

 それは例えば、同級生を『おとーさん』と『おかーさん』とする壮大な御飯事の様な関係かもしれない。

 でも、それはきっと、俺と弥織にしか作れない高校生活な様に思えた。


「えっと……じゃあ、これからも頼んでいいかな」

「うん、もちろん」


 お互い、少し照れ臭そうな笑みを交わす。

 そうして俺達は、珠理が待つ保育園へと歩を進めた。

 いつ珠理による魔法が解けるかはわからない。シンデレラの魔法の様に、いつまでと期限が決まっているわけではないが、同時にいつ解けるかもわからない魔法だ。

 ならば、その魔法が切れるまで、この関係を存分に楽しんでやればよいのではないだろうか。

 魔法が切れても、繋がっていられるガラスの靴を残せる様に。

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