第34話 おかーさんと呼ばれたいなら
登校も一緒、下校も一緒──傍から見れば、これはもう付き合っている様にしか見えないのではないだろうか。
そんな事を考えながら、隣に歩く伊宮弥織を見る。
どうしてこんな事になったかというと、先程ホームルームが終わった際に、弥織が『私も一緒に珠理ちゃんのお迎え行ってもいい?』と言い出したのだ。いきなりだったので驚いたが、無論俺としては断る理由がない。珠理も喜ぶだろうし、彼女が一緒にいてくれるとそれだけで気持ちも上がる。
視界の隅で信也が『え⁉ それなら俺も一緒に──』と声を発しようとしていたところを、スモモがエルボーを彼の鳩尾に入れていた。
蹲って呻く信也に対して、俺に親指をぐっと立ててみせるスモモ。だから、どんな気を回してるんだと思いつつも、二人にして貰えたのは助かったな、とも思えた。
弥織が一緒に迎えに付き合ってくれる意図がいまいちわからなかったので、それについても話したかったのだ。
「どうしてわざわざ付き合ってくれるんだ? 面倒だろ」
校門を出たあたりで、彼女に訊いた。
まだ周囲の生徒達の視線は気になるが、もうそろそろ慣れてきた。なにせ、今朝からずっとこんな視線を浴びせられているのだ。今更気にしたところでどうにもならないし、きっと他の男子生徒が弥織の横にいたら俺だって気になっていただろう。
「だって、その方が珠理ちゃん喜ぶでしょ? それに、面倒だなんて思わないよ」
「え、何で?」
「依紗樹くんは……ずっと一人でそうしてきたわけだし。それを面倒だなんて、思えるわけないよ」
その言葉に、嬉しさを感じてしまう。誰にも理解されないと思っていたその大変さを、こうして身近に理解してくれる人がいる──それだけで、俺の心は随分と軽くなる。
ただ、それはそうとして、平日も〝おかーさん〟をやる意味がどうにもよくわからなかった。彼女の負担が増してしまうのではないかと思うのだ。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、無理してないか?」
「あ、それは大丈夫。私なりに思うところがあって、そう決めただけだから」
「思うところ?」
「うん。確かに、私は母親としての正しさとか、そういうのはわからないけど……大変な事を何一つしないで、一緒に遊んだりとかご飯食べたりだとかいいとこどりだけするのが『おかーさん』として正しいとは思えないの」
いいとこどり──彼女は、一緒に遊んだりご飯を食べたりする事は、子育ての『楽しい部分』ではないか、と言うのだ。
しかし、実際の子育てとは、そういった楽しい部分だけではない。こちらが苛々していたり、テスト直前であっても子供は遠慮などしないでわんわん泣く。どうして泣いているのか意図を汲み取ってやれない事も多々あるし、寝不足になるし、自分のペースなんてものは無いに等しい。
無論、珠理はよくできた子なので、我儘をあまり言う方ではないが、こちらが疲れている時に泣かれたりしてしまうと、やはり苛々もしてしまう。何かを零したり、壊したりしてしまう事も多々あるし、どれだけ可愛い妹だと思っていても、ただ『可愛い』だけでは済まされない事があるのも事実だ。
「もし、私が珠理ちゃんのおかーさんでいたいと思うなら……そういった大変さをおとーさん一人に背負わせるのはダメなんじゃないかなって」
弥織はこちらを向いてくすっと笑うと、首を少しだけ傾けた。
私が珠理ちゃんのおかーさんでいたいと思うなら──何気なく言った彼女のこの言葉に、心が打ち震える程の嬉しさを感じた。
弥織は珠理の我儘な依頼を、ただ依頼としてではなく、『おかーさんでいたい』と思ってくれる様にまでなっていたのだ。
「もちろん、何でもかんでも手伝えるわけじゃないんだけど……それでも、自分のできる範囲だけでもやりたいの。『おかーさん』って呼ばれちゃったなら、それくらいやらなきゃいけないかなって。迷惑かな?」
「迷惑なわけ、ないだろ」
弥織の持つ責任感がそうさせているのだろうか。それとも、彼女が持つ母性がそうさせているのだろうか。俺にはそこまではわからない。
でも、こうして一緒に迎えに行ってくれて、少しでも俺の負担を軽くしようとしてくれる子が、身近にいる──そう思うだけで、随分と気持ちが軽くなる。今まで独りで背負っていたものに、そっと手を添えて支えてくれている様な、そんな感覚だった。
「珠理ちゃん、私も一緒に行ったらどんな顔するかなー」
「感極まって泣くんじゃないか?」
「それは大袈裟だよ」
そんなやり取りをしながら、一緒に保育園に向かう。
今まで、どこかで億劫さを感じていた放課後の学校からの保育園への道のり。迎えに行って、帰りに夕食を買って、ご飯を作って、お風呂に入れて、家事をして、宿題や予習をして……その日の予定を思い浮かべると、寝るまでに自分が忙しなく動いている事が想像できて、嫌になっていた。
しかし、その大変さをわかってくれていて、寄り添おうとしてくれる人が傍にいる──そう思うだけで、これまで感じていた億劫さは消えていた。
むしろ、彼女を連れて行ったら珠理はどんな顔で喜ぶだろうかと、楽しみにさえなっていた。そう思うだけで、見えてくる景色は変わっていて、この住宅街の道路も急に輝いてくるから不思議だった。
気の持ちようで、いくらでも気分も状況も変わる。それを、この伊宮弥織という女の子は俺に教えてくれている気がした。
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