第22話 明日からも〝おとーさん〟

 その後、さすがに夜道を女の子ひとりで歩かせるのは気が引けて、俺は弥織をバス停まで送っていく事にした。

 ここらは閑静な住宅街であるし、治安も良いので大丈夫だとは思うが、念の為である。クラスメイト……もとい、〝おかーさん〟役を務めてくれた子に何かあっては、堪ったものではない。


「わざわざ送ってくれなくてもいいのに。珠理ちゃん、寂しがるんじゃないの?」


 バス停までの道中、弥織が申し訳なさそうに言った。

 俺が送っていくと言った時、彼女は何度も気を遣わなくていいと遠慮していたのである。


「いや、コンビニとかまで何か買いに出る時とか一人で待たせてるし、慣れてると思う」


 そう。基本的に、家に帰ってからは俺一人しか珠理を看ていられる者がいない。ティッシュであったりトイレットペーパーであったり、何か生活必需品を切らしてしまった場合はコンビニまで慌てて買いに行く事が多々あるのだ。

 しっかりといつも万全に買い揃えておけば良い話なのだが、メモをしていても買い忘れてしまう事が多い。というか、目先の夕飯の事を考えるのでいっぱいいっぱいで、ついつい買い忘れてしまうのだ。かなり間抜けな性格なので、主夫としてはあまり向いていないのではないかと思ってしまう。

 だが、夜にわざわざ五歳の妹を外に連れて歩くのも、逆に不安になる事の方が多い。そういった時は、大体は妹は家で待たせて、コンビニまでひとっ走りするのだ。

 幸い徒歩数分ぐらいのところにコンビニがあるので、急げば往復五分で帰ってこれる。そのぐらいの時間であれば、珠理は文句を言わずに待っていられる子なのだ。

 鍵は外から締めてあるし、仮にインターフォンが鳴っても出ない様にしっかり教え込んである。そのあたりは五歳にしては優秀過ぎるくらい優秀なので、ある意味俺も安心していた。


「それに……『おかーさんを送って』って言ったの、珠理だし」

「そう、だったね」


 俺達は、互いに恥ずかしくなって、気まずそうに視線を逸らす。

 そうなのである。こうして彼女を送って行けと言ったのは、妹でもあったのだ。

 俺がバス停まで送っていくといい、弥織が珠理に気を遣ってそれを断るという押し問答をしていたところ、妹が発したのが『おかーさんを送って』だった。五歳のくせに、とんだ気を利かせてくれたものだ。無論、俺は心の底から感謝したが。

 そのまま暫く黙ったまま二人で歩いていると、隣を歩く少女がくすっと唐突に思い出し笑いをした。


「……? どうした?」

「え? あ、ごめん。何だか不思議だなって」

「不思議? 何が?」

「だって、私達ってこれまで殆ど話した事なかったじゃない? それなのに、今日だけでお互いの色んなところ知って……それで、すっごく距離が縮まった気がするから」


 彼女の言葉に「確かに」と唸る俺であった。

 殆ど話した事がないどころか、ほんの四日前には『俺のお母さんになってくれ』発言でドン引きされていた程だ。それが、この数日で話が二転三転し、弥織が家に来る事になって、更に明日も来るという。不可思議以外のなにものでもなかった。

 この数日でお互いの色んな一面を見たように思う。お互いの家庭事情を垣間見て、俺も誰にも見せた事がなかった家での様子を見せている。

 それに、彼女と普通に友達になっていても見れなかった一面もたくさん見た。珠理がいなければ、互いに一生見る事はなかったかもしれない面である。


「依紗樹くんの意外な一面もたくさん見れた気がするし、ちょっと得した気分」

「何だそれ。それはこっちの台詞だよ。学校では見れなかった弥織をたくさん見たわけだしな」

「ふーん? そんなに前から私の事見てたんだ?」

「ち、ちが! そそ、そういう意味じゃないから!」


 慌てふためく俺を見て、弥織が顔を綻ばせる。

 そう、不思議な事と言えば、これだ。間に珠理がいなくても、もう俺は彼女の事を『伊宮さん』とは呼ばないし、彼女も俺を『真田くん』とは呼ばない。そしてその事に違和感を既に持たなくなっている。お互いに自然と名前呼びになっているのだ。距離が縮まるにも程がある。

 そして、珠理と接している彼女を見ていて、その笑顔にどんどん惹きつけられてしまっているのを嫌という程自覚した。

 普段、学校で見せている笑顔もとても可愛らしくて素敵だ。でも、珠理に見せている笑顔がとても優しくて、それは学校で見せているそれとは全く異なる。彼女の笑顔を見ると、どうしようもなく胸が苦しくなって、居ても立っても居られない気持ちになるのだ。


「ふ、不思議って言えばさ、明日も来てくれるって言ったのも不思議だったよ」


 俺は何だか急に恥ずかしくなって、話題を少し変えた。

 自分が彼女にどんな気持ちを抱いているのか、それに気付かれるのが怖かったのかもしれない。


「あんな顔で『次いつ来るの?』なんて訊かれたら、明日って言うしかないよー」


 きっと先程の珠理の顔を思い出したのだろう。くすくすと笑っている。

 確かに、先程の珠理の顔は、捨て犬の様な眼差しだった。あれから逃れるのは至難の業なのであるが、弥織もまんまとハマってしまったらしい。


「いや、でも二日連続はさ。弥織も色々しんどいかなって。こっちは助かるけど、無理はしてほしくないんだよ」

「無理なんてしてないよ。それに、私も今日凄く楽しかったから」

「そっか……それなら、まあいいんだけど」


 それからまた少しだけ、沈黙が訪れる。

 その沈黙は決して変なものではなく、また居心地の悪いものでもなかった。ただ、夜道に二人の足音だけが響いていて、その足音すらもどこか暖かい。そんな気持ちにさせてくれた。

 それから間もなくして、バス停に着いた。ちょうど、信号機の向こう側に弥織が乗る予定のバスが停車していた。ぎりぎり間に合った様だ。


「あのバスか?」

「うん、タイミングよかったね」


 弥織は鞄の中から定期入れを取り出すと、こちらに笑みを向けた。

 その間に信号が青になって、バス停に停車する。バスの乗車扉が開いて、運転手の行先を告げるアナウンスがスピーカーから流れた。


「今日はありがとう。また明日も宜しくな」

「こちらこそ。送ってくれてありがとう」


 弥織はそうとだけ言って、バスの乗車階段に足を掛けた。


「あ、依紗樹くん」


 彼女が何かを思い出した様に、こちらを振り返った。


「明日からも宜しくね、


 悪戯げにそう言った彼女はどこか嬉しそうで、でも恥ずかしそうで。

 俺が何かを返す前に、彼女は逃げる様にしてバスの中に乗り込んでしまった。そしてバスの中からこちらを見るや、小さく手を振ってはにかむのだった。

 にやけそうになるのを必死に堪えながら手をふり返したタイミングで、弥織を乗せたバスが走り出した。


って……だから、心臓に悪いんだよ。バカ」


 バスが見えなくなってから、自分の頬が盛大に緩むのを禁じ得なかったのは、言うまでもない。

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