第21話 明日も〝おかーさん〟

 夕方のアニメ番組が終わった頃には、もう外は暗くなってきていた。世間一般で言う、夕飯の時間だ。


「暗くなってきてるけど、時間大丈夫か?」


 俺はカーテンを閉めながら弥織に訊いた。訊いたというより、実際は珠理の事を気にして帰り辛いのだろうと思って、助け船を出したのだ。

 もし彼女が夕飯をうちで食べていくというのなら出前くらいとるつもりだが、おそらくそのつもりはないだろう。先程から時計をちらちらと気にしているし、初めて遊びにきた男の家でご飯まで食べていく、という性格でもなさそうだ。


「あ、うん……そろそろ帰ろうかな」


 夜は家で食べるって言っちゃったから、と弥織は付け足した。どうやら家での夕飯の時間を気にしていたらしい。

 もし最初からうちでご飯を、と言っていたら、彼女は俺達と一緒に夕飯を食べてくれたのだろうか。思わずそんな気持ちが俺の中で湧いてしまう。それだけ、彼女がいてくれたこの時間が俺にとっても心地良かったのだ。


「珠理、おかーさんそろそろ帰るってさ」


 俺達の会話から、〝おかーさん〟の終わりが近付いていたのを察していたのだろう。珠理がしょぼくれた顔をしていたので、俺は明るく声を掛けてやる。

 妹はとてとてと小走りで弥織に近づいていく。そして、その勢いのままぶつかる様にして、彼女の腰に抱き着いた。


「え? あ……わっ」


 弥織は困惑しつつも珠理を抱き留める。一方の珠理は自分の顔を見られたくないのか、弥織のお腹に顔を埋めていた。

 きっと、帰って欲しくないのだろう。それを言葉にすると彼女に迷惑を掛けてしまうのがわかっている、けれどもその気持ちだけは表わしたい、というところだろうか。健気な妹だった。

 ただ、そんな珠理を見ていると、俺は無性に嬉しくなってしまった。弥織に来てもらってよかったと心から思えたからだ。


「ほーら、珠理。今日一日中遊んでもらった御礼は?」


 俺がそう言ってやると、珠理は弥織のお腹に埋めていた顔を少しだけ離して、上目で彼女を見る。


「おかーさんとあそぶの、たのしかった……ありがとう」


 そして、遠慮がちに御礼を言った。


「……うん。珠理ちゃんが楽しかったなら、私も嬉しいよ?」


 弥織は柔らかく微笑みながら、自分にしがみつく珠理の背中に腕を回した。そして、その小さな頭をよしよしと撫でる。


「あ……あの……」


 珠理は弥織をちらりと見上げると、また目を伏せて、遠慮がちな声を上げた。

 こんな妹を見たのも初めてだな、と思って、俺は二人を眺める。妹が何を言い出すのか、よもや検討もつかなかった。


「こんど会ったときも……」

「ん? なあに?」

「〝おかーさん〟……って、よんでも、いい?」


 恥ずかしそうで、でも不安そうな声色。

 珠理の切実なお願いに、弥織ははっとする。これは、また〝おかーさん〟をやってくれるか、という妹からの問いでもあった。

 弥織は何と答えるのだろうか、と俺はその場を黙って見つめる。

 今日の珠理を見ていれば、どれだけ弥織との時間を楽しんでいたかは想像に容易い。妹をあれだけ楽しませるのは、俺では不可能だった。

 できる事ならこれからも続けて欲しいが、そこは彼女の意思次第だ。俺としては、もし迷っているならクレープでも何でも奢るから頼むとお願いするつもりでいた。

 だが、弥織はこくりと頷いた。


「うん……いいよ」


 それはとても優しい声音だった。まるで聖母か何かを彷彿とさせる程、慈愛に満ちた声。

 横で聞いているだけで胸がぽかぽかと暖かくなる声を、俺は人生で初めて聞いた。初めて聞いたはずなのに、心のどこかで懐かしさも感じる。不思議な声音だった。


「あっ……!」


 その答えに妹はこれでもかという程顔を輝かせて、また弥織のお腹に顔を埋めていた。彼女はそんな珠理をぎゅーっと抱き締め、頭を撫でている。

 その光景はまるで、母に甘える娘の様であった。


「おかーさん……! おかーさん、おかーさん!」


 噛み締める様に、妹はその言葉を口にする。

 その姿を見て、俺は何か胸にぐっとくるものを感じた。

 毎日のルーティンを熟すだけで精一杯で気付いてやれていなかったけれど、もしかすると珠理は、ずっと母親をどこかで求めていたのかもしれない──そう実感させられた気がしたのだ。

 まだまだだな、と俺は思わず自分に失望した。妹が生まれてからずっと一緒にいるが、そんな事にも気付いてやれなかったのだ。兄貴失格だ。


「珠理、おかーさんもおうちに帰らないといけないから、あんまり困らせるなよ?」

「うん!」


 珠理は笑顔のまま弥織を見上げた。


「おかーさん、次はいつ来るの?」


 妹の問いに、俺はううむと内心唸った。

 困らせるなよと言ったばかりなのに、それはまた困らせてしまう質問なのではないだろうか。週に一度でも来てもらい過ぎだしな、と思っていると──


「どうしようかな……依紗樹くん、明日は何か用事ある?」


 弥織はにっこりとしたまま俺の方を見て、明日の予定を確認してくる。


「え? いや、何もないけど……」


 基本的に土日の予定は入れていない。あったとしても、どこか珠理を遊びに連れていってやるくらいしか週末の予定はないのがこの俺である。

 これでいいのか高校生、とも思うが、他に予定を入れられないのだから仕方がない。


「じゃあ、明日も来ちゃおうかな。迷惑じゃない?」

「え⁉ もちろんこっちは助かるけど……そっちこそ、いいのか?」

「うん。こう見えて私、結構土日は暇してるから」


 弥織は困った様に笑うと、少しだけ首を傾ける。

 土日暇だから、という理由で、わざわざ子守りを引き受けてくれる同級生がこの世にいるとは思わなかった。この伊宮弥織という女の子は、天使か何かの生まれ変わりではないだろうか。そう考えさせられてしまう。


「珠理、よかったな! おかーさん、明日も来てくれるってさ!」

「わあ! やったぁ! おかーさん、ありがとう!」


 妹はこれでもかと言うくらい顔を輝かせて、〝おかーさん〟にもう一度抱き着く。

 結局〝おかーさん〟が珠理から解放されたのは、それから一〇分後だった。

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