第20話 かっこいいおとーさん

 それから弥織と珠理は暫く絵を描いて過ごしていた。

 時にはスマホで描くキャラを検索しながら、彼女も楽しんで珠理の相手をしてくれていた様に思う。居間からは二人の笑い声が絶えず聞こえていた。

 夕方の頃合いになると、さすがに少し絵を描くのに疲れたのか、珠理が弥織と一緒にテレビを見ようと言い出した。毎週土曜日に彼女が見ている女児向けアニメだ。今は二人でローソファーに腰掛けながら、そのアニメを鑑賞している。


「え、嘘⁉ このアニメ、まだやってたんだ……」


 弥織は自分が小さな頃に見ていたアニメの続編が今も放映されている事に驚いていた。

 どうやら、彼女が幼い頃に見ていたアニメの続編を珠理が見ていたらしい。尤も、絵柄も声優も設定も殆ど変わってしまっていたが、自分の見ていた世界がこうして十一年も歳が離れた子供が見ていた事に、彼女は何処か感動していた様だった。

 ちなみに珠理はと言うと、弥織に背を預ける形でテレビを見ている。弥織が珠理を後ろから抱っこする形だ。

 完全に珠理は〝おかーさん〟に気を許してしまっているらしい。


 ──っていうか、そこ俺のポジションだったんだけどなぁ。


 先週は俺が珠理を後ろから抱っこする形でアニメを見ていたのだが、そこも奪われてしまった。ちょっと悲しい。

 ただ、弥織が珠理の相手をしてくれているのは、とても助かった。彼女が妹を看てくれている間、俺は溜まっていた家事を全部やり終える事ができたからだ。

 風呂掃除に洗濯、それに寝室の掃除に洗い物、いつも珠理の相手をしながらやっていると時間や労力も倍増していたのだが、今日はサクサクと物事を進められた。


 ──ほんと、助かった。


 気にはなっているけれど、毎日の生活に追われているとできない事は結構多い。夜は少し時間もあるけれど、珠理を寝かした後は大きな音を立てない様にしないといけないので、できる事は限られているのだ。


「あっ、お疲れ様」


 大体の仕事を終えて居間に戻ると、弥織がそう声を掛けてくれた。

 彼女は相変わらず珠理の背もたれになりながら、妹と一緒にテレビを見ている。今は教育テレビのバラエティー番組を流している様だ。


 ──冷静に考えると凄い光景だよな、これも。


 学校一の美少女が妹と一緒にうちの居間でテレビを見ている。

 夢でも見ているかの様な心境だ。


「私にも手伝える事あったら言ってね?」


 唐突に彼女が不思議な事を言う。

 それは〝おかーさん役〟から逸脱する業務ではないだろうか。


「何で?」

「依紗樹くんがせっせと働いてるのに、私ばっかりこうしてのんびりさせてもらってるから。何だか申し訳なく思えてきちゃって」

「いやいや、弥織の御蔭で色々やれてなかった事できたから。すげー助かったよ」


 どうやら妹と遊んでいる間に俺がずっと家事をしていたのを気にしてくれていたらしかった。

 そんな事気にしなくてもいいのに、やっぱり弥織はとても優しい子だな、と改めて思う。

 ちなみに、さすがにお互いそろそろ名前で呼ぶのにも慣れてきた。最初は何度か苗字で呼んでしまって珠理に怒られたものだが、今では苗字の方が呼びにくくなりつつある。たった数時間で呼び方の習慣も変わるのだから、不思議なものだった。

 しかし、呼ぶ方は慣れつつあっても、名前で呼ばれる事には未だ慣れていない。それは彼女も同じ様で、名前で呼ばれた時にどこかくすぐったそうな顔をしていた。


「依紗樹くんって凄いね」


 弥織は、感心した眼差しで俺を見ていた。


「え? どこが?」

「だって、家事全部一人でやってるんでしょ? それに学校の事もちゃんとしてるんだもん……凄いと思う」

「いや、まあ……俺がやらないと家が大変な事になるし。それに、今日は弥織が来るから綺麗になってるけど、普段は結構手ぇ抜いてるからさ。主婦に比べたら全然凄くない」

「そんな事ないよ。依紗樹くん、かっこいいと思う」


 弥織が首を横に振って俺を見つめると、目を細めた。

 かっこいい──その言葉に、思わずどきりとする。気になっている子からかっこいいと言われて嬉しくないはずがない。


「い、いや。これまで弥織に告った人達の方がかっこいいと思うけど。サッカー部のキャプテンとか」

「え、やだ。何で知ってるの?」


 照れ隠しに話題を変えると、学校一の美少女が驚いた顔をしていた。

 彼女の方からは告白された事を一切口外しないので、知られていないと思ったのだろう。


「……イケメンサッカー部キャプテンを振った話は結構有名な話じゃないかな。俺でも知っている話だし」


 俺も信也から聞いただけなんだけど、と付け足す。

 確かそのキャプテンは、弥織に振られて傷心しているところをサッカー部のマネージャーに慰められ、結局そのマネージャーとくっついたそうだ。信也が『地獄に落ちろ』とキレていたのが記憶に新しい。


「案外皆、自分から言うんだね」


 私は話さない様にしてるのに、と彼女は呆れた様子で嘆息した。

 相手のプライバシーを重んじて、友達から訊かれても彼女はこれまではぐらかしていたそうだ。そうした気遣いをしているのに、自分からぺらぺら喋られては堪ったものではないだろう。

 それに、女同士の嫉妬というのもあるから言わないという事もあるそうだ。その告白してきた男の子を好きな女の子から敵意を向けられたり、嫉妬をされたりと言った事が女子の社会であるらしい。なにそれ怖い。


「正直、その人の事は殆ど覚えてないんだけど……でも、こうして珠理ちゃんの為に一生懸命に頑張ってる依紗樹くんの方が、断然かっこいいよ」


 そう言って、学校一の美少女は優しく微笑んだ。


「それ……そーとー変わってる見解だと思う」


 何だか恥ずかしくなって、俺は彼女からテレビ画面へと視線を移した。


「そうかな? まあ、私が世間一般の言うかっこいい男の子っていうのをあんまりわかってないだけかもしれないけど」


 弥織は珠理の頭を撫でると、少し身を前に乗り出して彼女の顔を覗き込んだ


「ねー、珠理ちゃん。おとーさんかっこいいよね?」


 そして、いきなりそんな事を妹に訊き出す。

 だから、おとーさんって言うのはやめろって……色々心臓に悪いから。おにーちゃんにしてくれ、せめて。っていうか正真正銘おにーちゃんなんだけど。


「うん! おとーさん世界で一番かっこいい!」


 珠理は破顔一笑でそう言った。


「だってさ、依紗樹くん。よかったね」


 弥織は俺の顔を見ると、「あ、嬉しそう」とからかう様な笑みを浮かべた。俺がにやけてしまっていたので、それを見て面白がっているのだろう。

 ただ、妹からかっこいいと言われてにやけていたわけではない。俺が当たり前にやっている事、いや、やらざるを得なくなった事をこうして誰かに認めてもらえて、褒めてもらえたのが純粋に嬉しかったのである。

 これらの事は……母が亡くなり、父が殆ど家に帰ってこなくなった事で、唐突に全て義務として生じた事だ。誰かに知られるわけでもなく、褒められるわけでもなく、部活やコンテストの様に賞を貰えるわけでもない。やらなくてはいけない、ただの義務なのだ。

 しかし、義務であったとしても、高校生の身でそれを全て熟すのは結構大変で、他の高校生が羨ましいなと思う事も多々ある。

 それでも、俺のそうした毎日を知って、こうして褒めてくれる人がいると、それだけで救われた気になった。


「あ、そうだ。私おかーさんだから、今度は家事も手伝うよ? こう見えて、結構家事は得意な方だから」

「バカ、やめてくれ。そんな事まで頼めるかってんだ。ほんとにハウスキーパー代払わないといけなくなるだろ」

「遠慮しなくていいのにー」


 弥織は可笑しそうに言って「ねー?」と珠理に訊くと、妹も「ねー?」と彼女の真似をする。全く、大した仲の良さだ。

 もちろん遠慮だけではなくて、俺が手を抜きまくっているところまでバレてしまうというのもある。クラスメイトにそれを知られるのは少し恥ずかしいのだ。

 というか……


 ──そこまでしてもらったら、本当に夫婦みたいになるじゃんか。


 喉元まで出かかった言葉。

 これを言うと、御互い恥ずかしさのあまり死んでしまうと思ったので、言わないけれど。


 ──というか、おとーさんおかーさんって珠理から呼ばれているけど、弥織はどう思ってるんだろうな?


 ただ少し大きめな御飯事として割り切っているのだろうか。おそらく俺も、そう割り切ってしまった方が楽なのだろう。

 だが、妹と学校一の美少女が仲良く笑い合ってテレビを見ている姿を見て、ほんの少しだけ、彼女とのそんな夫婦生活を想像してみる。

 それはきっと、凄く幸せな生活な気がした。

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