第19話 凄まじいおかーさん人気
「わあ……!」
弥織が絵を描き上げていく様を見て、珠理の瞳がどんどん輝いていく。
トラえもんを描いてからは、〝おかーさん〟は動物の絵を次々と描いていった。もはや画用紙が動物園と化しそうである。
一匹描き上げる度に珠理が顔を輝かせて喜ぶので、彼女も楽しくなったのだろう。自分を〝おかーさん〟と呼ぶ子供の喜ぶ顔が見たい一心で絵を描くその姿は、どう見ても〝おかーさん〟にしか見えなくて、見ているだけで心が暖まる。
──何が『お母さんがわからない』だよ。
俺は嘆息しながら妹とクラスメイトの姿を眺めていた。
しっかりと子供の心を掴んでいるし、もはや妹は俺に見向きもしていない。おかーさんの前では兄も形無しである。
「……完成。珠理ちゃん、何か分かる?」
画用紙には可愛らしい熊の絵が描かれていた。
誰がどう見ても熊にしか見えなくて、吹き出しで『はちみつ大好き』と書いてある。それは、プーさん的なやつのヒントだろうか?
「くまさん!」
「うん、正解」
「すごーい! おかーさん、お絵描きのくろうと!」
「く、玄人……? ではないと思うけど……」
時折珠理の口から出てくる難しい言葉に、弥織が苦笑いを浮かべる。
夫婦といい、玄人といい、どこで覚えたんだ、そんな言葉。少なくとも俺は教えた記憶はない。
保育士の木島さん……ではないだろうし。最近の園児は難しい言葉を知る機会があるのだろうか。
「ほかには? ほかには何が描けるの⁉」
「えー、どうしよう? じゃあ、珠理ちゃんの好きな動物描いちゃおうかな。どんな動物が好き?」
「えっとね、ぺんぎんさん! 描ける?」
「うん、描けるよ。ちょっと待っててね」
珠理のリクエストを聞いた弥織は、青色の色鉛筆に持ち替えると、早速ペンギンを描いていく。
ほんの数秒でペンギンとわかるシルエットが出来上がっていき、愛らしい目と
「はい、完成」
「わあー! ほんとにぺんぎんさん! ナツミちゃんより上手!」
ぱちぱちと拍手をして、弥織の絵を讃えた。
保育士の木島先生の画力は、おかーさんの前では完敗の模様だ。
「ナツミちゃん……?」
一方、聞いた事がない名前が出て、弥織がじっとこちらを見て訊いてくる。やや不機嫌というか、訝しむというか、そんな感じの表情だ。
え、なにその顔。もしかして、他に〝おかーさん〟がいるのか怪しまれている?
「ああ、ナツミちゃんってのは保育園の先生。木島夏海先生って言うんだ」
「あ、そうなんだ」
〝ナツミちゃん〟の正体が保育士さんだとわかって安堵したのか、弥織はほっとした表情を浮かべた。
「やった、先生に勝っちゃった」
そう言って、ちょっと得意げな顔を見せる。
自信なさげだったくせに、いざ描き始めると大したものだった。しかも、最初のトラえもんより随分画力も上がっている。
絵を描くのは久々だったらしいが、こうして描いているうちに色々思い出してきたらしい。
「実はね、このペンギンさんには描くコツがあるんだよ?」
「そうなの⁉」
「うん。コツさえ掴めば珠理ちゃんにも描けるから、一緒に描いてみる?」
「うん! 描きたい!」
一瞬にして珠理の心を掴んでしまった弥織。もとい、おかーさん。
凄い。こんなにテンションの高い珠理を見たのは俺も随分と久しぶりだ。少なくとも、最近の俺では妹をこれほど楽しませてやる事などできなかった。
妹は彼女をスーパーで一目見た時から、こうなる事を予測していたのだろうか。それとも、直感的に相性の良さを感じていたのだろうか。ともあれ、妹の第六感には感服する他ない。
「じゃあ、まずはここの輪郭から描き始めて……」
「こう?」
「うん、上手だよ。その次はね……」
二人がペンギンを描いている。
弥織のペンギンは確かに描き方にコツがある様で、順番と角度を真似れば、園児の珠理でも彼女の描くペンギンに近いものを描けていた。その時の妹の喜びっぷりと言ったらなかった。保育園で自慢するそうだ。
弥織はそうした珠理を嬉しそうに眺めていて、その慈愛に満ちた笑みに俺は心を奪われるのだった。
「……? どうしたの?」
俺の視線に気付いた彼女が不思議そうに訊いてくる。
「な、何でもないよ」
俺は慌てて視線を妹の色鉛筆へと移した。
弥織は首を傾げているが、無視だ、無視。その顔に見惚れていただなんて、口が裂けても言えない。
二人はそれからも色々な動物の絵を描いていた。〝おかーさん〟が簡単な描き方を教えてやっていて、みるみるうちに珠理の作画力も上がっている。
娘と〝おかーさん〟は会話をして、笑顔を交わす。そこには二人だけの世界が出来上がっていて、俺が入る隙なんて全くなかった。こうなってくると俺はいよいよお役御免だ。
「あの……み、弥織?」
俺はやや緊張しながら彼女の名前を呼んだ。何度か呼んでみてはいるものの、まだまだ慣れるまで時間が掛かりそうだった。
「なあに、依紗樹くん?」
一方の弥織はもう名前で呼ばれる事も呼ぶ事も慣れてしまったのか、まだぎこちない俺を見てくすくす笑っている。
「ちょっと洗濯と風呂掃除してきていい? 昨日から居間と玄関の掃除ばっかしてたから、溜めちゃっててさ」
「うん、いいよ」
弥織は頷いて、珠理の方を向いた。
「じゃあ、珠理ちゃんは私とお絵描きの練習してよっか?」
「うん! もっとおかーさんとお絵描きしたい!」
珠理が画用紙に向き合って色鉛筆を走らせたのを確認すると、俺は肩を竦めて立ち上がる。
兄として妹に献身してきたつもりだったが、一気に〝おかーさん〟に人気を取られてしまったらしい。
「あっ」
洗面所の方に向かおうとすると、弥織が何かを思い出した様な声を上げた。
「ん?」
「家事頑張ってね、おとーさん」
「おと──っ⁉」
学校一の美少女が目を細めてそんな事を言ってくるものだから、胸がこれでもかと言うくらい締め付けられて爆発しそうになった。
「あ、ああ……」
赤くなった顔を隠してぶっきらぼうに返事だけすると、そそくさと洗面所に向かう。
──い、意味わかってて言ってんのか、お前⁉ わざとか、わざとなのか⁉
彼女が見えなくなってから、詰まっていた息を吐き出す。心拍数が上がり過ぎて胸が痛かった。
無茶振りをして引き受けてもらい、今のところお上手くはいっているものの、この〝おかーさん〟契約は色々と心臓に悪すぎる。心筋症になりそうで怖かった。
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