第18話 おとーさんとおかーさんと名前

 とりあえず伊宮さんをリビングまで案内して、テーブルを挟んで三人で座る。俺と珠理が正面から向き合って、妹の横に伊宮さんに座ってもらった。

 しかし……握手はしたものの、相変わらず珠理は緊張しているのか、言葉を発しない。カチンコチンに固まってしまっている。


「えっと……どうしよう……?」


 伊宮さんも困った様子で俺と珠理を見比べている。

 彼女が困るのも尤もだ。こちらから〝おかーさん〟をやってくれと頼んだのに、肝心の娘が何をして欲しいのかを言わないのでは、どうしようもない。俺ももちろん、妹が何をして欲しいのかまではわかっていないのである。

 それに、あまりこの状況が続くのはよくないと思えた。

 ただでさえ、伊宮さんは自身に母とも想い出がない事から、『母親としての正解がわからない』と言っていた。自分が母親を知らないから彼女が何をして欲しいのかわからないのではないか、と責任を感じてしまう可能性もある。その事態だけは避けたかった。


「珠理、おかーさんと遊びたいんじゃなかったのか?」


 妹はその言葉に反応して伊宮さんを見上げて頷くが、またすぐに顔を伏せてしまった。

 伊宮さんも困った顔でこちらを見るが、俺も珠理が何をしたいのかわからない。


 ──もうちょっとリサーチしておけばよかったな。


 今更だが、後悔した。 

 あれだけおかーさんと会いたいと言っていたのだから、会えばやりたい事などすらすら出てくるものだと思っていた。少なくとも、普段の珠理からならそうだろうと思えた。


 ──伊宮さんは、珠理にとって何か特別なのかな。


 ただ、このままだとまずい。どうしようか。

 とりあえずもうちょっと後に出そうと思っていたおやつで場を和ませるか──そう考え始めていた時に、伊宮さんが居間の隅っこにあるローテーブルをちらりと見た。

 テーブルの上には、画用紙や色鉛筆が置かれたままだ。


「珠理ちゃん、絵描いてたの?」


 伊宮さんは嫣然えんぜんと笑って、珠理に訊いた。


「……うん」

「じゃあ、お姉ちゃん……じゃなくて、おかーさんとお絵描きしよっか」


 〝おかーさん〟はまるで聖母の様に優しい笑顔を向けて、〝娘〟に提案する。

 その言葉に妹は顔を上げて伊宮さんを見ると、頬を緩ませ元気よく「うん!」と頷いた。

 伊宮さんと妹はローテーブルの方に移動すると、二人で横に並んで座った。


 ──なんだ、全然大丈夫じゃないか。


 正解がわからないと言っていたのに、最適解だと思われる選択をした様に思う。

 多分珠理は、おかーさんと遊べるなら、何でもよかったのだろう。そして、それは伊宮さんだからこそ見抜けたのではないかと思うのだ。


「これ、全部珠理ちゃんが描いたの?」


 伊宮さんが画用紙に描かれた様々な絵を見て、訊いた。

 画用紙には、動物や保育園で流行っているポカモンのキャラクターなどが、色とりどりに描かれている。五歳にしてはなかなか上手いと思わされる絵だ。


「うん!」

「珠理ちゃん、絵がとっても上手だね」

「えへへ。あ、でもこれはおにーちゃんが描いた」


 珠理が、俺が描いた芸術的なトラえもんを指差した。


「お兄ちゃんは……絵、あんまり上手くないね」


 伊宮さんが引き攣った笑みを浮かべて、俺を見る。

 おい、なんだその顔は。失礼だぞ。


「うん、おにーちゃん下手!」


 妹の忌憚のない言葉が、追い打ちとなってぐさりと胸に突き刺さる。

 まあ、確かにお世辞にも上手いとは言えない。でも、妹を喜ばせる為に一生懸命見本画像を見て描いたんだぞ。全然喜んでもらえなかったけど。


「やかましい、芸術的と言いなさい、芸術的と」

「これを芸術的って言うのは、さすがに無理があるんじゃないかなー。真田くん、美術の成績低いでしょ?」

「いや、下手なのがわかってるから、そもそも選択すらしなかったよ……」

「うん、それが正解だね」


 伊宮さんがくすくす笑って言う。

 ちくしょう、酷い言われ様だ。でも、俺がボロカス言われる事で会話が上手く回るくらいなら、それに越した事はない。実際に色がなければトラえもんかどうか判別ができないほど、酷い絵なのは事実だ。


「ねえ、珠理ちゃん。おかーさんも一緒にお絵描きしていい?」

「うん!」


 そうして、二人のお絵描きが始まった。

 特にやる事もないので、俺は丸くなっている色鉛筆の先っぽを削りながら、二人が並んでお絵描きをする様子をぼんやりと眺めていた。

 伊宮さんのお絵描きの腕前であるが、これまた悔しいほどに上手い。上手くて可愛げのある絵柄だから、保育園児にとっては堪らないだろう。


「すごい! おかーさん、すごい!」


 伊宮さんが描いたトラえもんの絵を見て、大絶賛である。

 俺のトラえもんなど、落書きにすらならないほどの上手さである。ちくしょう、これは悔しい。


「伊宮さんって絵上手いんだな」


 削った色鉛筆をケースに戻しながら言う。

 女の子は不思議と絵が上手い子が多い印象だが、小さい頃に練習でもするのだろうか。


「そうかな? 自分ではあんまり上手いとは思った事ないんだけど」

「いや、普通に可愛いじゃないか。俺のトラえもんの一〇〇倍は上手いよ」

「まあ、真田くんと比べればね」

「おい」


 俺がツッコミを入れると、伊宮さんはぺろっと舌を出した。腹が立つけど可愛い。

 伊宮さんとそんな会話を交わしていると、珠理が不思議そうに俺と彼女を見比べていた。


「どうした?」


 何かもの言いたげな顔だったので、訊いてみた。


「おかーさんとおとーさんは、名前で呼び合わないの?」

「──ぶっ!?」

「──けほっけほっ」


 妹のとんでもない発言に俺は噴き出し、伊宮さんは咳き込んでいた。

 どこからツッコミを入れればいいのかわからない。色々話がおかしな事になっていた。


「待て待て待て。何で俺がおとーさんになってるんだよ。俺はお兄ちゃんだろ?」


 実際に、珠理の実父はいるし、それは俺の実父でもある。今どこで何をしているのかは知らないが──どうせ会社にいるのだろう──確かに存在しているのだ。

 それに、ついさっきまで彼女は俺を『おにーちゃん』と呼んでいたはずだ。それがどうしていきなりおとーさんになっているのだ。


「おかーさんといる時は、おにーちゃんはおとーさんなの」

「何なんだ、そのとんでも設定は」


 ただ、少し考えれば、彼女がその疑問を持つのも尤もだ。

 昨日もそれで〝バブみ性癖〟を伊宮さんから疑われてしまったが──断じて違う──俺が兄で、伊宮さんが母だと、色々都合が合わないのである。それに、俺と彼女は同い年で、それこそ親子というのは設定としても無理がある。


「おとーさんとおかーさんはふーふなのに、名前で呼び合わないの?」

「うぐ……」


 ちくしょう、五歳児め。どこで夫婦なんて言葉を覚えたんだ。

 どうしようと思って伊宮さんをちらりと見ると、彼女は顔をまっかっかに染めて俯いてしまっていた。


「いや、でも、それはさすがに……な?」

「えっと……」


 お互いにごにょごにょと言いながら視線を逸らす。

 やばい、究極的に恥ずかし過ぎて、めちゃくちゃ顔が熱くなってきた。

 ただでさえ、俺にとって伊宮さんは憧れの人だ。話す様になって、家にまで呼んだ事で既に全ての気力を使い果たしているというのに、ここから名前呼びはハードルが高過ぎる。


「……お名前、呼ばないの? ふーふ仲、悪い? りこんちょーてー?」


 妹は泣きそうな顔で、俺と伊宮さんをじぃっと見てくる。

 ああ、もう。その顔はやめてくれ。妹の泣きそうな顔には弱いんだ。あと、離婚調停とかどこで覚えたんだ、本当に。

 俺は覚悟を決めて、息を大きく吸ってから吐き出す。そして、正面の彼女をしっかりと見据えて、その名前を呟いた。


「えっと……弥織みおり


 俺が名を呼ぶと、彼女は顔を真っ赤に染めながらも、驚いた様に俺を見ていた。

 そして、顔を綻ばして首を少し傾げると、こう言うのだった。


「なあに、依紗樹いさきくん……?」


 彼女に名を呼ばれた瞬間、心臓がどこかに飛んで行ってしまったかと思った。

 気になっていた女の子に名前で呼ばれる事の嬉しさと、あまりに可愛すぎたその笑顔で、頭がどうにかしてしまいそうだった。


「いや……その、なんでも、ない、です」

「そ、そう……?」


 俺達は互いに林檎の様に顔を赤く染めながら、明後日の方向に視線を向けた。

 そんな俺達を見て、珠理はご満悦そうに笑っていた。さっきの泣きそうな顔も、演技ではないかと思わされる程に。

 この瞬間から、弥織が〝おかーさん〟を務める時は俺が〝おとーさん〟になった。それは同時に、俺達が互いを名前で呼び合う仲になった瞬間でもあったのだった。

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