第17話 妹とおかーさん

 翌日の土曜日──午前授業が終わると、すぐに珠理を保育園に迎えに行って、自宅へと直行した。

 今日は伊宮さんが初めてうちに来る日である。友達とか恋人とかではなく、妹の『おかーさん役』という謎の立場としてではあるが、それでも気になっている女性が家に来るのだ。可能な限り綺麗な状態で迎え入れたいと思うのは、中高生男子としては自然だろう。

 学校では伊宮さんとは何も話していない。俺達はLIMEを交換しているので、いわば学校で話す必要がもうないのである。

 昨日伊宮さんと一緒にクレープを食べていたところを目撃はされていたが、幸い同じクラスの連中には見られていなかった。その御蔭で、クラス内で話題になっておらず、スモモや信也からも何も言われずに済んでいる。また教室で何か言われる事を覚悟していたので、とりあえずほっとしたものだった。

 ただ、それも今週末までだろうと予測している。今日の午後の部活や友達との会話でおそらくその情報は広がりを見せ、月曜日には信也やスモモの耳にも入っているに違いない。それを思うと、少し気分が重かった。

 だが、月曜日の事を今から気にしても仕方ない。今は、伊宮さんが初めてうちに来て、『おかーさん役』を引き受けてくれた事を素直に喜ぼう。

 ちなみに、伊宮さんが来る事に関して、妹にはまだ言っていない。サプライズにした方が喜ぶと思ったからだ。

 家に帰って妹にご飯を食べさせると、俺はあくせくと掃除と来客時の最終チェックをする。滅多に人など訪れない家だから、生活感が溢れまくっていて、昨日から大慌てで掃除をしていたのである。

 目につきそうなところに埃が落ちていないかなど、これまで見過ごしていたところまで細かくチェックしていく。毎日の生活と妹の世話だけで多くの労力を持って行かれるので、細かい掃除など普段からしていられないのだ。

 妹は「おにーちゃん、どうしたの?」と普段と異なる兄の行動を怪訝に思いながらも、一人で絵を描いて遊んでいた。

 それから一時間程経過した時、家のインターフォンが鳴った。


 ──来た!


 〝おかーさん役〟こと伊宮弥織の御到着だ。

 スマホを見ると、LIMEの通知が来ていて『もうすぐ着くよ!』とスタンプ付きでメッセージが届いていたので、彼女で間違いないだろう。


「はーい」


 インターフォンに出ずに、そのまま玄関扉を開けると、門扉の向こうに私服姿の伊宮弥織が立っていた。

 白ニットのワンピースにベージュのバッグを持っており、いつもの制服姿とは印象も違っている。裾が膝上とやや短く、ミニスカートの様になっているが、それでも彼女が着ると清楚さを全く損なわない。


 ──ちょっとこのおかーさん可愛すぎませんか? いや、おかーさんではないのだけれど。


 そんな事を思うが、もちろん口には出せない。


「……こんにちは」


 伊宮さんは少し恥ずかしそうな笑みを向けて、首を傾けた。

 笑顔を作ってはいるものの、表情が硬い。かなり緊張している様子が見て取れた。


「いらっしゃい」

「部屋、片付いた?」


 緊張を和らげる為か、伊宮さんが悪戯げに訊いてくる。

 昨夜のLIMEでのやり取りで、『普段来客なんて滅多にないから生活感が溢れていてやばい、今掃除してる』という旨を伝えていたからだ。


「さっきギリギリ終わったところ。細かいところは目を瞑ってくれ……」


 門扉を開けながら、引き攣った笑みを浮かべた。

 どこまで掃除するのが正解なのか、主夫力の低い俺の知識ではわからなかったのだ。


「だから、私そういうの気にしないってば」


 伊宮さんは困った様に笑うと、門扉を締めてうちの敷地内に入った。

 彼女は昨日のLIMEでもそう言ってくれていたが、彼女が良くても俺がよくない。せめて、伊宮さんが来る時くらいは綺麗な家にしたかったのだ。


「立派なお家だね」

「ああ。こんな家に住んでるのが高校生と五歳児の二人って言うんだから、笑えるだろ?」


 うちは小さいながらに一軒家だ。この家は、結婚を機にローンで親父が購入したらしい。その家主が殆ど家に帰ってこないのだから、何とも皮肉な話だ。

 おそらく親父は、この家を幸せな家庭の象徴として買ったのだと思う。しかし、妻、即ち母さんに先立たれてしまい、彼にとっての幸せな家庭は、夢となって消えた。ここは彼にとっては幸せの残骸なのである。

 親父がこの家にあまり帰って来ないのは、そういった心理が働いているのかもしれない──俺は何となくだが、親父の事をその様に理解していた。


「お父さんは?」

「殆ど仕事で帰ってこないよ。週に一、二回夜中に帰ってくる程度」

「……そうなんだ」


 その言葉から何かを察したのか、伊宮さんが少し寂しげな表情をする。

 彼女が何を想像したのかはわからないが、俺はそれ以上の事を言わなかった。話しても、気持ちのいい事ではないからだ。


「どうぞ。あ、スリッパはこれ履いて」


 そのまま玄関扉を開けて、彼女を家に招き入れた。

 来客用のスリッパなどもちろん用意していなかったので、昨日の帰りに慌てて買ったのは内緒だ。


「ありがとう。えっと、それと……お邪魔します」

「……どうぞ、寛いでいってくれ」


 俺と伊宮さんは互いに緊張し切った様子で、そんな何とも言えないやり取りをする。いまいち日本語も噛み合っていない気がした。

 思えば、不思議な関係だった。

 俺と伊宮さんは、クラスメイトという以外に接点すらなくて、話したのはここ数日だけだ。そんな女の子が妹のお母さん役を引き受けてくれて、あまつさえ家にまで来てくれている。色々よくわからない状況だ。


「おにーちゃん?」


 誰か知らない人の声が玄関から聞こえてきたからか、リビングからたとたとと妹が走ってくる。そして、玄関に立っている女性を見て固まった。


「珠理、喜べ。〝おかーさん〟が来てくれたぞ」

「……⁉」


 現実が受け入れられない、といった様子で珠理が目を見開いて伊宮さんを凝視している。


「は、はじめまして……真田くんのクラスメイトの、伊宮弥織です」


 一方の伊宮さんも緊張した様子で、声を震わせながら自己紹介をしていた。


「っ……⁉ あ、えっと……!」


 珠理は顔を赤らめて目をぎゅっと閉じてしまった。どうしていいのかわからないのか、言葉を詰まらせている様子だ。


「ほーら、珠理。自己紹介されたら、自分もしなきゃだめだろ?」


 そうは言ってみたものの、珠理は顔を赤くして、ガチガチに固まってしまって何も話そうとしない。


「おーい、珠理?」


 これは、もしかして緊張しているのだろうか。珠理が生まれてきてから五年間、ほぼ毎日彼女を見ているが、こんな妹を見たのは初めてだ。

 保育園でもコミュニケーションは良く取れていて、保育士さん達の言う事もよく聞く子だと言われている。また、近所のおばさんに話し掛けられても、愛想は良い子だ。

 基本的に人見知りしない子だと思っていたのだが、ずっと会いたいと願っていた人が目の前にいるものだから、過度に緊張してしまっているのかもしれない。


「悪い。人見知りしないはずなんだけど、今日はちょっと──って、え?」


 伊宮さんの方を見てみると、彼女も拳をぎゅっと握りしめて、息を止めていた。


「あー……伊宮さん?」

「……はひ?」


 なんだか変な声で返事が返ってきた。


「もしかして、緊張されておられますか?」

「し、してないよ……?」


 声が震えていた。めちゃくちゃ緊張している。

 娘役と〝おかーさん〟役は二人共人見知りを発揮している様だ。ある意味この二人は少し似ているのかもしれない。

 だが、それにしてもこれには困った。本来伊宮さんが家に来ている事で俺が最も緊張していてもおかしくないはずなのだが、予想に反して俺が一番冷静だ。

 ただ、それならば、一番冷静な奴が場を仕切らないといけない。


「なあ珠理、まずはちゃんと自己紹介しなきゃダメだろ? せっかく学校終わった後に、わざわざ来てくれたんだから。会いたかったんだろ? そんな態度だと、おかーさん帰っちゃうぞ?」


 そう言ってやると、珠理ははっとした顔で俺を見た。そして、おずおずと伊宮さんへと視線を移す。


「あ、えっと……さなだしゅり、五さいです」


 珠理は俺の足にしがみ付きながら、顔を伏せて小さな声で自己紹介をする。


 ──んー、本当に困ったな。


 ここまで珠理が人見知りするとは思っていなかった。

 伊宮さんも伊宮さんで、珠理の様子を見て自分まで緊張していてはダメだと思ったのだろう。深呼吸をすると、姿勢を屈ませて珠理と目線を合せてから、にこりと微笑んだ。


「うん。宜しくね、珠理ちゃん」


 そして、笑顔のまま珠理に手を差し出す。


「珠理、こういう時はどうするんだ?」


 俺も伊宮さんと同じく視線を落として訊いてやると、珠理は遠慮がちに上目で伊宮さんを見る。伊宮さんは変わらず、にこにこしたままだった。

 そして、珠理が伊宮さんの手を取って、ようやく握手が成立する。

 これが、我が妹と、おかーさん役のクラスメイトの邂逅だった。

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