第9話 伊宮弥織の過去
「お母さんがわからないって……どういう事なんだ?」
お母さんがわからない──その言葉から、何か重い雰囲気を感じた。日常会話で当たり前に友達と話す話題ではない、そんな重い響きがあったのだ。
彼女は「あんまり引かないで欲しいんだけど」と前置いてから続けた。
「私……お父さんとお母さんがいなくて」
「えっ?」
「お母さんは私が物心ついた頃にはいなかったし、お父さんに関しては顔も知らないの」
彼女の口から、衝撃的な発言が出た。
伊宮さんの両親は、両家の反対を押し切り駆け落ち同然で結婚したそうだ。しかし、彼女が生まれて間もない頃に両親は離婚。それから暫く母親が一人で彼女を育てていたそうだが、シングルマザーで生まれたての子を育てるのは、身体的にも精神的にも厳しかった。無理が祟り、彼女が二歳になる頃に過労から大きな病気を患ったのだと言う。
このままでは娘を育てられないと悟った母親は、彼女の親に頭を下げて家に戻った。しかし、その時点で体はかなり悪くなっており、回復する事なく伊宮さんを置いて亡くなってしまったのだと言う。父親に関しては、離婚後にどうなったのかすらわからないらしい。
以後、彼女は母方の祖父母に面倒を見られて生きてきた。
「だから……私にはお母さんがわからなくて。どんな風に接するのがお母さんとして正しくて、どんな風にすればお母さん役を演じれるのか、わからないの。私には……参考にできる記憶がないから」
俺はそれを、ただ黙って聞いているしかなかった。何と言えばいいのか、どういった言葉が適切なのか全然わからなくて、ただただ黙りこくるしかなかった。
それは信也も同じだった。スモモは友達だから、その事実を知っていたのだろう。溜め息を吐いて、視線を屋上の柵へと向けていた。
これは、伊宮弥織が一般的には開示していない情報だ。少なくとも俺は聞いた事はなかったし、信也も驚いているところを見ると、初耳なのだろう。おそらく、本当に仲の良い友達にしか言っていない真実なのだ。
──最悪だ。
俺は瞬時にそう思った。
ただ妹を想ってしたお願いは、もしかすると、彼女をとてつもなく傷つけてしまったのではないだろうか。そんな恐怖感と後悔だけが体中を渦巻いていた。
「あの、嫌な事話させて──」
「あっ。謝らなくていいよ?」
俺が謝罪の言葉を並べようとすると、彼女が先を読んでいた様に言葉を遮った。
「だって、別に嫌な事でも悪い事でもないから。私の両親はそうだったっていう……ただ、その事実を話しただけだよ」
伊宮さんは力なく笑った。
それはいつも周囲に振り撒いていた笑顔とは全く異なっていた。安らかであるものの、どこか人生を諦めてしまっている様な、諦観に満ちた笑み。少なくとも、高校二年生がする女の子が見せる笑顔ではなかった。
「でも、これを話すと、皆が言葉に困って申し訳なさそうに謝るから、私の方がいつも申し訳なく思っちゃって。だから、皆には話さない様にしてただけ。そこは、本当に気にしないで?」
「何で……それを俺には話してくれたんだ?」
伊宮さんはそう言うが、結果的に彼女の予想通りの空気になってしまっているはずだ。
今の話ぶりだと、おそらく彼女の家庭事情は、スモモみたいな一部の仲の良い友達にしか伝えていないのだろう。俺と伊宮さんは、ちゃんと話したのは今日が初めての様なものだ。そんな奴に話していい内容ではないと思う。
「それは、
「俺が?」
「うん。ちゃんと家の事情とかも含めて理由を話してくれて、真田くんの気持ちもわかったから。それで私が理由を言わないのは、フェアじゃないなって思ったの」
フェアじゃない──そうは言うけれど、俺だって彼女に無理に話させたかったわけじゃない。
それで彼女が嫌な思いをするなら、むしろ伏せておいてくれてもよかった。ただどうしても彼女にできないと言われたならば、俺は引き下がるしかないのだから。
例えそうだったとしても、こちらの気持ちに応えようとするところが、この伊宮弥織という女の子なのだろうか。良い人であると同時に、少し損な性格をしているな、とも思うのだった。
「それに、私だと珠理ちゃんのお願いを叶えてあげられないもの。お母さんが欲しいのに、お母さん役が正解を知らなかったら、何もしてあげられないでしょ? そんなの、可哀想だよ」
眉根を寄せて困った様に笑うと、彼女は小さく息を吐いた。
その困り顔を見ていると、何とも言えない気持ちになってくる。色んな感情が込み上げてくるけども、何を言えば良いかわからない。
「
それから伊宮さんは申し訳なさそうに顔を伏せると、「じゃあ、またね」と無理矢理笑みを作って、屋上への入り口へと歩いて行く。
俺は
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