第8話 思いもよらぬ展開

「えっと……妹さんって、この前スーパーで会った子、だよね?」


 こほん、と咳払いをしてから、伊宮いみやさんは話題を変えた。

 俺としてはもう少し聞いてみたいところではあったのだけれど、彼女がそれを望まないというのであれば、仕方ない。


「ああ、うん。あの時からその『おかーさん』云々を言い出したんだ」

「そうなんだ……」


 伊宮さんは呟く様にそう言って微笑むと、少しだけ首を傾けた。

 それは、まるで吸い込まれそうな笑顔だった。

 その時の笑顔があまりに柔らかくて、可愛らしくて、それでいて胸の中が暖かくなると同時に、どこか懐かしい気持ちにさせられる。誰かの笑顔を見てここまで感情を揺り動かされたのは、人生で初めての経験だった。

 彼女に本気で恋をしてしまう男性は、皆同じ様な感覚になるのだろうか。だからこそ、大した接点もないのに玉砕覚悟で告白してしまうのだろうか。

 そんな気持ちにさせられる。


「実はね?」


 伊宮さんは笑みを保ったまま、少し恥ずかしそうに顔を伏せて続けた。


「その……あのスーパー、近所だから私もよく使ってて。今まで何回も真田さなだくんとすれ違った事あったんだよ?」

「え、マジで⁉」


 驚いた。まさか、彼女も同じスーパーを日常的に使っていたとは思ってもいなかった。

 だが、俺が保育園に迎えに行って帰りに寄るのはあのスーパーだ。彼女の家があそこから近く、また学校帰りの夕方くらいに寄っていると考えると、知らぬうちに遭遇していた可能性は高い。

 ただ、俺はいつもメニューを考えながら妹を注視していたので──一度スーパーの中で見失って肝が冷えたのだ──周囲に気を配る余裕などなかった。伊宮さんが同じスーパーにいたなどとは、露ほども思わなかったのだ。というより、彼女にそこまで認識されているとも思っていなかった。せいぜい、同じクラスにいるモブ男子程度の認識だと思っていたのだ。


「前から可愛い妹さんだなぁって思ってて、こっそり見てたの。真田くんも私と同じ高校生なのに、いつも妹さんの面倒見てて……凄いなって」


 伊宮さんは、照れた様子で言葉を紡いでいた。

 年が離れている事もあって最初は親戚の子供かとも思ったそうだが、珠理しゅりが俺を「おにーちゃん」と呼んでいたので、兄妹だと察した様だ。

 何だか、思ってもいなかった展開になっていた。どう考えても一般人な俺が、あの学校一の美少女こと伊宮弥織いみやみおりから認識されていて、あまつさえお世辞でも凄いと言われてしまっている。これは一体、何の冗談だろうか? もしかしてテッテレー的なやつかと思って横目で信也とスモモを見るが、二人が『ドッキリ大成功』と書いたプラカードを出してくる気配はなかった。


「おいおい、スモモの婆さんや。これは……もしかして、もしかするのか?」

「嘘でしょ……あのみーちゃんが男子に興味を持ってたなんて」

「でも、この場合は珠理ちゃんに興味を持ってたんじゃ?」

「いやいや、でもさっき真田の事を凄いって思ってたって言ってなかった?」


 二人のこそこそ話が僅かに聞こえてくるが、いまいち何について話をしているのかはわからなかった。


「だから、この前妹さん……珠理ちゃんだっけ? に気付いてもらえたの、ちょっと嬉しかったりして」


 ちらっと俺を一瞬だけ上目で見ると、すぐに伊宮さんは顔を伏せてしまった。

 なるほど。これで、あの時伊宮さんが俺達を見て──というか珠理を見て──笑みを浮かべた理由がわかった気がする。前から認識されていたなら、あの反応も頷ける気がした。


「でも、『おかーさん』かぁ……それはちょっと予想してなかったなぁ。そんなに私と真田くんのお母さんって似てたのかな?」


 彼女が悪戯げに笑って、首を傾げて訊いてくる。

 その問いに、俺は思わずぎくりとした。昨日、木島さんからも同じ問いをされて、その時に母の面影を少しだけ彼女に見てしまった。そこに対する罪悪感と自己嫌悪が蘇ってくる。

 同級生の女の子に母親の面影を見るって、絶対におかしい。そんなの伊宮さんに失礼だ。というか、なんだか自分がマザコンみたいだ。それならまだシスコンの方がマシだ。いや、どっちも違うと思うのだけれど。


「どうなんだろう……? でも、珠理は母さんの顔は知らないはずなんだ。写真も見た事ないはずだし。だから、あいつは『お母さん』が何なのかもわかってないと思う」


 気付けば、はぐらかした返答をしていた。

 論点をズラしている自覚は自分でもあった。でも、何故か俺は彼女の質問に答えられなかったのだ。

 伊宮さんは「そっか……」とだけ言って、それ以上は追及してこなかった。

 それからほんの少しだけ屋上に沈黙が訪れた。春の柔らかな風が優しく吹いていて、彼女の髪とスカートを揺らしている。

 信也とスモモも普段は喧しいが、今はその場を見守っていた。というより、何も答えを発せられなかったのかもしれない。

 すると、伊宮さんが何かに納得した様に、うん、とひとりで頷いた。かと思えば、顔を上げてこちらを見る。


「ちゃんと説明してくれて、ありがとう。緊張したよね……?」

「いや、まあ……今回も前回も、相当」


 俺がそう返すと、「だよね」と伊宮さんは微苦笑を浮かべた。

 ある意味、今回は信也やスモモがいてくれた御蔭で少し冷静になれていた気がする。これが二人きりだったらまた何か変な言い間違いをしていた可能性があった。二人には感謝だ。


「真田くんの気持ちもわかったし、私もあの時はテンパってすぐ逃げ出しちゃったから……そこは本当にごめんなさい」

「いや、俺の方こそ。気持ち悪い想いさせたかなって、謝りたかったから」

「気持ち悪いだなんて思ってないよ。そういう、ちょっと変わったバブみな性癖を持ってるのかなって、びっくりしただけで」

「その勘違いが一番困るんだよ。あと、バブみバブみ言わないでくれ。本当にそんな趣味があると思われたらそれこそ取返しがつかなくなる」


 抗議してやると、伊宮さんは「ごめん」とくすくす笑った。

 どうやら、今の『バブみ』発言は少しからかいの意図があったみたいだ。そうしたからかいができるなら、もう誤解は完全に解けたと言っていいだろう。


「それで、何だけど。伊宮さん」

「ん?」

「一回でいいから、その……あいつの『お母さん』してやってくれないかな? 一回で満足すると思うし……」


 一つ難関を超えたと確信した俺は、次の難関に挑む事にした。

 だが、伊宮さんは複雑そうな顔をして、俯いた。


「それは……ごめん。できないと思う」

「え⁉」


 少し意外だった。

 先程までの反応を見ている限り、一回くらいだったらやってくれると思っていたからだ。


「あ、嫌とかそういうんじゃないよ? 手伝えるなら、私も手伝いたいんだけど……でも、私じゃ力になれないと思うから」


 相変わらず彼女の表情は浮かない。それに、どこか悲痛さも感じられた。

 スモモの方をちらりと見てみると、彼女は理由を察しているのか、苦い表情を浮かべている。


「どういう事だ?」

「えっとね……? 私は『お母さん』がの」


 伊宮さんの口からは、俺の予想もしていなかった言葉が出てきた。

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