第6話 交渉成立と弁明条件

「交渉成立だ」


 翌日の昼休み、信也しんやが廊下ですれ違いざまに声を潜めてそう言った。

 おそらく、何かの映画の真似だろう。何となくそんな事をしたかったのだと思う。そういう年頃なのだ。

 それはそうと、信也が伊宮いみやさんサイドと交渉を成立させたらしい。伊宮さんと信也には接点はなかったはずなのだが、どの様に交渉・調整したのかは謎である。

 だが、兎角俺に弁明の機会は与えられたようだった。時は今日の放課後、場所は屋上。どうやらそこで審判が下されるらしい。

 とりあえず、信也からはちゃんと誤解がない様に話す言葉をまとめておけと言われた。間違いない。今度は緊張して変な事を言わない様に、ある程度頭の中で言うべき事を考えておいた方が良さそうだ。

 そして、これはある意味俺にとってのチャンスとも言える。

 珠理しゅりは暫く『おかーさん』の事を諦める気はなさそうであるし、一回でもいいから彼女に会ってもらえないかお願いしてみよう。なに、珠理が一体何をどう勘違いして伊宮さんをお母さんと言っているのかはわからないが、一回でも会えば満足だろう。

 もしかすると、遊んでくれるお姉さんが欲しかっただけな可能性もある。その場合、どうして保育士の木島きじまさんではダメなのかという疑問も生まれてくるが、今は気にしてはいけない。不都合な真実に目を瞑るという事も生きていく上では必要なのである。

 俺は授業などそっちのけで、伊宮さんへの弁明文を考えた。授業中、ちらちらと伊宮さんがこちらを見ていた気がするが、今は目を合わせない様にだけ心掛けた。今変に警戒されてしまって弁明の機会を損失してしまえば元も子もないからだ。このチャンスだけは失うわけにはいかないのである。

 そして──遂に、放課後になった。伊宮さんは先に教室からそそくさと出て行っているので、おそらく先に屋上に向かっているのだろう。


「よし、行くぜ。そんな弁明文で大丈夫か?」

「大丈夫だ、問題ない」


 信也の質問に固唾を飲んで答えつつ、俺達は屋上へと向かった。


「って、待った。お前も来るのか?」


 当たり前の様に一緒に階段に登ってくるので、慌てて訊いた。

 お母さんになってくれ発言の弁明を友達に聞かれるというのは、さすがに恥ずかしいにも程がある。


「悪いけどそれが条件なんだ」

「条件?」

「ああ。向こうサイドにとっちゃお前はストーカー疑惑すらある。そんな男と二人きりになるのは危険だから、あちらサイドとこちらサイドでそれぞれ仲介人を連れてくる事で合意を取った。嫌か?」

「いや、まあ……そりゃあ、良くはないけど」


 俺って本当にそこまで警戒されているのか。さすがにそれはちょっと辛い。既に心が折れそうだ。


「あ、その疑ってるのは伊宮本人じゃなくて、あっちの仲介人な。俺が弁明の機会を依頼した人間だよ。俺も伊宮本人とは殆ど繋がりないからな」

「なるほど、そういう事か。伊宮さんの友達にお願いしたんだな」

「そういうこった。これでもお前の為に相当粘って交渉した結果なんだ。これ以上は無理だった。何せ、そいつのガードが固くてな」


 おそらく、かなり頑張ってくれたのだろう。良い友達を持ったものだ。

 一個五〇〇円の総菜パンを報酬として奢ってやった甲斐もあったというものである。その御蔭で俺は今日の昼をクリームパンのみで過ごす羽目になったのだが、今回ばかりは仕方ない出費だ。

 それに、伊宮さん本人からストーカーを疑われているわけではないという話も、俺を安堵させた。彼女からそう思われていたら、絶望的だった。


 ──そういえば、昨日も俺に話し掛けようとしてくれたもんな。


 もしかすると、彼女の方も俺と何かコンタクトを取りたかったのかもしれない。それも、会えば全てわかる事だ。


「ところで、向こうの仲介人は誰なんだ?」

「ま、お前も知ってる奴さ」


 じきにわかるよ、と信也は肩を竦めて言った。

 信也曰く、伊宮さん本人は俺の事をどこまで警戒しているのかはわからない。ただ、その周囲の女友達はお前の事を警戒している、との事だった。

 というのも、伊宮さんに振られても話しかけようとしている、というそのガワから俺がストーカーになりかけていると判断しているのは、他でもないその周囲の子達だ。俺が警戒されるのは当然だろう。


 ──あの前世がボストロールの子だったら嫌だな。タックルで屋上から突き落とされそうな気がする。


 そんな不吉な事を考えている間に、階段を登り切って遂に屋上へとたどり着いた。屋上へと出る錆びた鉄扉がいつも以上に重く感じて、鉄の擦る音が階下まで響いていく。

 扉を開けると、橙色の光が視界を覆って、思わず目を閉じた。夕暮れの空がこれでもかという程綺麗に広まっていて、今から弁明をするのだと言う事を一瞬忘れさせてくれる。春風が顔に吹きつけ、夕陽が普段よりも眩しい気がした。

 目を凝らしてゆっくりと瞳を開けると、そこには二人の女子高生が俺達を待っていた。

 一人は聖高ひじこう一の美少女と謂われている伊宮弥織いみやみおり。一応当事者である。

 彼女は風に流れる長い黒髪を手で押さえながら、困り顔でぺこりと頭を下げた。

 俺も慌てて頭を下げ返す。しっかりと俺を見てくれるとも思っていなかったので、それだけでどきっとしてしまった。

 そしてもう一人は、幸いにもボス・トロールの女の子ではなかった。ショートボブの女の子だ。

 俺は彼女を知っていた。彼女は同じクラスの鈴田桃音すずたももね。スモモの愛称で知られているノリの良い女の子である。

 スモモはショートボブとくりくりした瞳が印象的で、可愛らしく元気な子だ。おそらく彼女ほど第一印象が良い女の子も滅多にいないだろう。スモモはクラスの元気印でもあって、信也が男子のムードメーカーであるなら、彼女は女子のムードメーカーだ。

 彼女は基本的にテンションが高く、誰でも気さくに話し掛けるので、男女共々人気がある。伊宮さんとも同じグループに所属し、よく話しているのを見掛けた事があるので、仲も良いのだろう。今回はスモモを仲介して、信也が頼み込んでくれた様だ。

 しかし、そんな基本的にテンションが高く、誰でも気さくに話し掛けるスモモが、今や俺に警戒心を剥き出しにした視線を送っている。


「来たわね、ストーカー男!」


 スモモが敵意丸出しの目をして、びしっと俺を指差した。

 弁明すらさせてもらえず、いきなりストーカー男って……それは少し酷い様に思う。泣いちゃいそうだ。


「こらこら、スモモ。だから、それが勘違いだって言ってんだろ」


 信也がうんざりとした顔で仲裁に入る。

 おそらく、昨日から何度も同じやり取りが繰り返されているのだろう。


「どうだか! みーちゃんを狙う男は皆獣だからね!」


 まるで威嚇する猫の様に、「しゃー!」と俺を睨みつける。怖い。


「ちょっと、桃ちゃん! その言い方は失礼だってば」


 スモモの態度に、伊宮さんも苦言を呈した。

 スモモは伊宮さんの事を〝みーちゃん〟と呼ぶらしい。名前が弥織だから、みーちゃんか。対して、伊宮さんは桃ちゃんと呼んでいる様だ。他とは異なる相性で呼び合っているところから、二人の仲の良さが伺える。

 スモモは「えー、だってぇ」と不服そうに唇を尖らせていた。


「ごめんね、真田さなだくん。桃ちゃんには何度も違うって言ってるんだけど……」


 伊宮さんが俺の方に申し訳なさそうに眉を寄せて言った。


「いや、大丈夫。それも含めて、誤解を解きにきたからさ」


 伊宮さんに笑みを見せて、頷いて見せる。

 こうして彼女がまだ俺に対してちゃんと会話してくれている事で、俺は少しばかり気を持ち直した。この様子だと、一昨日の様に逃げられる事もなさそうだ。

 というか、何だかこれだと俺がスモモと揉めているみたいだ。なんだんだこの図式は。


 ──あ……もしかして、事の成り行きの詳細をスモモにも話してないのか。


 仲の良い友達くらいになら話していそうなものだと思ったが、俺の面子を気にしてくれているのか、どうやら胸の奥で留めてくれているようだ。


「へん! あたしはまだ信用してないわよ! 下手な言い訳なら問答無用で蹴り落とすからね!」

「こらこらこら、容疑者を脅すんじゃない」

「誰が容疑者だ、誰が!」


 全く信也のフォローがフォローになっていなくて、思わずツッコミを入れる。

 こうして言われていると、何だか俺が本当に悪い事をしたみたいになってくる。いや、微妙に悪い事はしてしまったのだと思うのだけれど、ここまで言われる程ではないと思うのだ。


「まあ、いいや……とりあえず、その、色々誤解があるんだ」


 俺は溜め息を吐いてそう前置いてから、続けた。


「俺も言い間違いもあって、混乱させちゃったし、もしかしたらそれで怖い想いもさせちゃったのかもしれないから、まずはちゃんと説明したくてさ。その話聞いた上で、伊宮さんがどういう判断をするかはそっち次第で……とりあえず、話だけでも聞いてもらえないか?」


 伊宮さんをしっかり見据えて、そう伝える。

 その時、彼女は少しどきっとした様な顔をして「は、はい!」と何故か敬語で背筋を伸ばした。

 どうして彼女がそんな態度になるのかはわからなかったが、とりあえず俺は、頭の中で書き上げた弁明文を読み上げるのだった。

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