第5話 珠理(妹)の鋭さ

「おにーちゃん!」


 保育園に着くと、亜麻色の髪をツインテールに結んだ可愛い我が妹がたとたとと走ってきて、俺に飛びついてきた。

 全く、本当に俺と血が繋がっているのかと思うくらいに可愛い。


「おー、珠理しゅり! 待たせたな。寂しかったか?」


 周囲を見ると、他の子達はもう迎えに来てもらっていて、保育園の中にいた子供は珠理だけだった。信也と話していた分、少し遅くなってしまったのだ。

 取り残されていて寂しいはずだとは思うのだが、妹は「んーん!」と笑顔でそれを否定する。本当によくできた妹だった。


木島きじまさん、すみません。遅くなってしまいまして」


 俺は珠理の横にいた、小動物の様に愛らしい茶髪ボブの保育士さんに頭を下げた。


「いえいえー。珠理ちゃんはいつもいい子にして待ってますよ? ね、珠理ちゃん?」


 木島さんが珠理の頭を撫でて言った。

 彼女は木島夏海きじまなつみさん。妹のクラスを担当している若い保育士だ。

 まだ保育士になったばかりだというが、面倒見がよくてママさん達からの信用も厚い。俺がここの保育園に安心して珠理を預けていられる理由でもある。

 もし何か保育園で問題が起きたり、珠理が喧嘩をしたりした時は──そんな事滅多にないのだが──しっかりと対処した上で結果を報告してくれる。例えば、『お母さん』に関する事が子供達の中で話題になって珠理が何か言われるような事があれば、その事も俺に逐一報告してくれるはずなのである。


 ──いや、でも一応訊いておくか。


 もしかすると、些細な事でも何かあったのかもしれない。俺はそう思って、珠理が玩具を遊戯道具箱に片付けに行ったタイミングで、木島さんに声を掛けた。


「あ、すみません、木島さん」

「はい、何ですか?」

「あの……最近保育園で何かお母さん絡みの話題になったりした事ってあります?」

「お母さん絡み、ですか」


 木島さんが顎に手を当てて、「うーん」と天井を見上げた。

 そして、首を横に振る。


「いえ……極力そういった話題にならない様に気をつけているので、私は認識していません」

「そうですか」

「あ、でも──」


 そこで木島さんは何かを思い出した様に、はっとした様子で続けた。


「珠理ちゃん、最近『おかーさんに会った』って言ってました。『お兄ちゃんと同じ服着てた』って言ってて、何の事だろうと思ったんですけど……」

「ああ……そっちか」


 俺は頭を抱えたい気持ちになった。何と、伊宮いみやさんの事を保育士さんにも言ってしまっているらしい。

 しかも、同じ制服を着ているというところまで見抜かれてしまっている。伊宮さんと俺がそれほど遠い関係でない事も彼女は既に理解しているのだ。我が妹ながら、なかなかに鋭い。


「あれってどういう事なんでしょう? お兄ちゃんと同じ服っていう事は、制服?」

「ああ……はい。いや、この前スーパーで俺のクラスメイトに会ったんですが、その子を見て以来どうにも『おかーさん』って言うようになって……それで、何かこっちであったのかなって思ったんです」

「なるほど、そうだったんですね」


 ふむ、と木島さんは納得したような様子で頷いた。


「そのクラスメイトの女の子は、依紗樹いさきさん達のお母さんに似てるんですか?」


 若い保育士のお姉さんがとんでもない事を訊いてくる。そして、どこかからかう響きもあった。もしかして、女の勘というやつだろうか。


「え? いや……だって、高校生ですよ? さすがに似てるって事は──」


 その時、俺の脳裏で母の笑顔が蘇った。

 流れる様な黒い髪に、大きな瞳。いつも慈愛に満ちた笑みを浮かべていて、俺の頭を撫でてくれた母さんの笑顔。そして……その笑顔がどことなく伊宮さんの笑顔と被って見えてくる。


 ──あ、れ……?


 一瞬だけ、じわりと胸と瞼の裏が熱くなった気がした。

 もしかすると、俺も珠理と同じく、母親と伊宮さんを何処かで重ねて見ていたのだろうか。恋に恋をする為ではなく、本当は母と重ねていたから彼女を無意識に目で追ってしまっていたのではないか──そんな疑問が湧き上がってくる。

 だが、もしそうだとすれば最低だ。マザコンにも程がある。


「ない、と思います、けど……」


 何とも言えない気持ちが胸の中から湧き上がってくるのを堪えながら、言葉を絞り出す。

 自分の中でそれは認めたくない気持ちだった。それに、決して似ているわけではない……と、思っている。

 生前の母は三十代半ばだ。そんな母が、高校二年の同級生と似ているはずがない。実際に、俺の記憶の中の母親と彼女は全く似ていなかった。似ているとすれば雰囲気だが……それはもう、確かめようがない。母さんはもうこの世にいないのだから。


「そうですかー。まあでも、あんまり深く考え過ぎない方がいいですよ? 園児同士で『お母さん』っていう単語を聞いただけ、という可能性もありますから」

「そうですよね……ありがとうございます」


 俺はそう言って木島さんに頭を下げる。

 確かに、その可能性はあった。というか、圧倒的にその可能性が高い。だから、俺がこうまで気にするのは変なのだろう。そう自分に言い聞かせる事にした。

 珠理が遊戯道具箱から戻ってくると、木島さんにもう一度だけ御礼を言って、保育園を後にする。

 帰りに例のスーパーに寄った。伊宮さんと遭遇したスーパーだ。うちの家と保育園の間には、ここにしかスーパーがないのである。

 珠理を迎えに行った帰りに、いつもここで夕飯を買って帰るのだ。家の近くにあるスーパーよりも肉類の値段が安く、庶民には有り難い店だった。


「珠理、今日は何食べたい?」

「んー、ナポリタン!」

「ナポリタンか」


 内心、またか、と思ってしまった。

 ナポリタンは彼女の好物で、最近は週一でナポリタンを食べている気がする。


「味に変化をつける為に今日はお兄ちゃんが──」

「やだ。おにーちゃんのナポリタン、まずい」


 ぐさっと来る言葉を無邪気な顔で言い放つ我が妹。

 お兄ちゃん、涙が出そうだ。滅多に我儘を言わない妹であるが、食べ物に関しては苦言を呈される事が多い。


「じゃあ、またレトルトのやつにするか……ちょっと多めに買っておくよ」

「うん、れとるとー」


 珠理は破顔一笑すると、上機嫌に鼻歌を歌い出した。

 以前ナポリタンを作った時にまずいと言われて、その次にレトルトのナポリタンを食べさせたら「美味しい」と言われてしまった。あの時は大いに傷付いたものだった。

 確かに、俺のナポリタンは美味しくはなかったけれども、まずいはあんまりだと思うのだ。子供は正直に話すから、胸が痛い。


 ──もしかすると、他のものも不味いって思われてるのかなぁ。


 もしそうだとすると、落ち込む。

 ナポリタンはその中でも許せないレベルのまずさだったという事だろうか。この料理苦手も何とか克服しないといけないのだろうが、如何せん練習は一日一回のみで、ぶっつけ本番だ。なかなか上達する気配がない。

 それに、親父の話によると、親父も料理は死ぬほど苦手だったらしい。俺の料理下手は遺伝なのかもしれない。


「ねえ、おにーちゃん」

「ん?」

「おかーさんは?」

「え? うーん……おかーさん、なぁ。どうなんだろうな。あはあは」


 園児に何度も「お母さんはいない」と言い続けるのも酷な気がして──おそらくそれは俺の精神衛生上にとっても良くなかった──言葉を濁す。

 その後は何とか彼女が興味を引く別の話題へと変えて、その場をやり過ごしたのだった。


 ──でも、これ……何とかしないといけないよなぁ。


 とりあえず、信也が何か動いてくれる様なので彼の連絡待ちだ。

 俺は無力感に打ちひしがれながらも小さく溜め息を吐いて、暮れつつある空を見上げた。


「ふふ~ん、ふ~ん、ふ~ん、ふ~~んっ」


 横からは珠理の鼻歌がリズミカルに流れてくる。よく家でも歌っている鼻歌だが、何の歌だかは俺もわからない。また、どこかで聞き覚えもあった気がする。

 ただ、それが何処で聞いた歌だったかまでは、思い出せなかった。

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