第3話 真田依紗樹の生活

 放課後になっても俺の立場は変わるはずもなく、自分の席で突っ伏して絶望感に打ちひしがれていると、足音が近づいてきた。

 前の席の椅子ががらっと引かれて、誰かがその椅子に座る。こちら側に呼吸音が聞こえてくるところを見ると、その主は後ろを向いて座っている様だ。


「よぉ、〝失恋せし者ハートブレイカー〟。傷付きっぷりが初々しいな?」


 憎たらしい悪友の声が聞こえてきた。

 もはや相手をするのさえ面倒だが、真実と全く異なる事を言われて黙っているわけにはいかない。


「そんな中二病満載な通り名で呼ばないでくれ……しかもどっちも違うから」


 俺は顔を上げて、不満を述べた。

 目の前にいたのは、俺の悪友にして親友の間谷信也またにしんやだ。高校に入ってからつるむ様になり、学校内では大体こいつと過ごしている。

 信也は基本ノリ重視でアホだが、友達思いで決して悪い奴ではない。また、このクラスではムードメーカー的なポジションでもあって、男女問わず人気がある奴だ。その性格もあって、友達や知り合いも多い。

 知り合いすら少ない俺からすれば羨ましいなとも思うのだが、本人曰くそうではないらしい。ただノリで話しているだけで、友達という友達は殆どいないそうだ。


「ほお? じゃあ、今お前に向けられているこの視線は何だ?」


 信也が親指でくいっと教室を指差す。

 すると、そこには俺を憐れむ男子からの視線と、ストーカー行為許すまじといった様子の女子からの怖い視線があった。生きているだけで公開処刑に遭っている様な気分だ。


「だから……違うんだって」


 俺はぐったりとうなだれて答えた。

 説明する事さえもう面倒だった。失恋したというか、まあ色んな意味で片思いすらできない状況にはなってしまってはいるものの、失恋とは少し違う。そして、傷付いているわけではない。ただただ困っているのだ。


「ま、とりあえず帰ろうぜ。ここだと色々あれだろ?」


 信也が嘆息してからそう提案した。違いない、と彼の提案に頷き、席にかけたスクールバックを背負う。

 教室を出る時、視線を感じたのでそちらを見てみた。すると、その視線の主は渦中の人──どちらかというと渦中なのは俺だが──こと伊宮弥織いみやみおりだった。彼女は俺と目が合うと、一瞬何か声を掛けようか迷った表情をするのだが、周囲の視線を気にしてか、申し訳なさそうに肩と視線を落とすのだった。


 ──伊宮さんにも色々負担を掛けちゃってるなぁ。


 自分の行動の浅はかさを呪った。

 縁がないとは思っていたけど、仮にも気になっていた女の子だ。普段は可愛らしい笑顔を振りまいているのに、あんな風に肩を落とさせてしまっているのが申し訳なくて堪らない。

 だが、今更俺に何ができようか。むしろ俺が動くと、余計に迷惑を掛け兼ねない。

 俺も彼女と同じく肩と視線を落とし、廊下へと出て行った信也の背を追うのだった。


「で? 大して恋愛に興味がなさそうなお前が、高嶺の花どころか断崖絶壁に咲く一輪の花に手を伸ばした理由は? ラーメンでも食いながら話そうぜ」


 昇降口で靴を履き替えたところで、悪友が悪戯な笑みを浮かべて訊いてきた。

 彼はこの噂が噂通りのものではないと察しているのだ。彼との付き合いも一年以上になるので、この真田依紗樹さなだいさきという人間をある程度はわかっているのだろう。

 そう、俺がストーカー男になるはずがないのである。ただ、それをわかってくれるのがこの間谷信也ひとりだけというのもまた、悲しいものだった。


「ラーメンのお誘いは魅力的なんだけど、もうあんまり時間がないんだ」


 俺はスマートフォンをタップして時間を表示させてから言った。


「そっか、もう珠理しゅりちゃんを迎えに行かないといけないのか」


 忘れてたよ、と信也は小さく息を吐いた。

 少し残念そうだ。彼としては、もうちょっと俺と遊びたいのかもしれない。


「今日は七限授業だったからな。終わったらすぐに直行なんだよ」


 そう、俺には五つになる妹がいる。名前は珠理。年が離れているせいか、目に入れても痛くない程可愛い妹だ。

 妹の保育園の預かり時刻は六時までなので、七限授業の日は学校から直行で迎えに行かないといけない。その足で帰りはスーパーに寄って夕飯の買い出しをし、家に帰ったら夕飯を作って妹に飯を食べさせる。

 そして、それが終わったら自由時間──なんてものはなくて、妹の世話だったり、遊んでやったり、絵本を読んでやったりと色々大変だ。その後は風呂に入れてやって、九時頃になると妹がうとうとし出すので、彼女を寝かしつける。

 掃除や洗濯をして、そこまで終われば、ようやく自分の時間だ。そこから宿題をやったりテスト勉強をしたりと少しだけ勉強をして、風呂に入って日付が変わったくらいで寝る。それが俺の一日の生活サイクルだった。


「大変だよなぁ。俺なら発狂しそうな生活してるよ」

「……もう慣れたよ」


 俺は信也の言葉に、少しだけ間を置いて返した。

 今の生活に慣れたかと言えば、本当のところを言うと慣れてはいない。ただ俺がやらないといけないからやっているだけだ。


「ラーメンはまた今度な。埋め合わせするよ」

「おう。ま、今日んとこは歩きながらでいいか」


 そんな会話をしながら、俺は信也と家路に着く。

 保育園までの道のりと信也の通学路が同じなので、こうして友達と話しながら妹を迎えに行けるのはある意味助かる。俺だって友達と下らない話をしながら過ごす放課後に未練はあるのだ。

 本音を言えば、放課後にファミレスやファーストフード店にだって行きたいし、ゲームセンターやカラオケにだって行きたい。だが、俺にはそれができない。妹の珠理がいるからだ。

 ここまで話せば自明であるが、俺には母親がいない。正確に言うと、十一歳の頃に亡くなった。珠理の出産時に子宮が破裂し、大量出血に見舞われたのだ。輸血が足りれば助かったかもしれないが、血液型がAB型のRhマイナスだった事もあって、十分な輸血が得られなかった。

 結局母は、妹の命と引き換えに息を引き取った。最後に『珠理をお願いね』という言葉を俺に残して。

 愛妻家だった父は、母の死去で完全に壊れてしまった。いや、壊れないぎりぎりのところで自分を保つ為に、仕事に打ち込んでいると言うべきなのかもしえない。

 父は母の死を逃避する様に働き、週に一~二回夜遅くに家に帰ってくる程度だった。朝起きれば俺が起きるよりも早くに家を出ていて、妹と顔を合わせる事はほぼない。妹からすれば、父親という概念がもうないかもしれない。

 珠理が生まれて間もない頃は、遠くに住んでいる祖父母が子育てを手伝ってくれていたが、保育園に入れられる様になってからは殆ど俺ひとりで担う様になっていた。というのも、珠理があまり祖父母に懐かなかったからだ。

 俺が面倒を見ていた方がいい、と判断して、結局高校に入ってからは保育園の送り迎えなど含めて全部ひとりでする様になっていた。

 友達と遊んだり、恋をしたりしてみたいなとは思う。父がかなり多めに食費や生活費を渡してくれているので、お金に困った事はないが、社会経験としてバイトもしてみたいという気持ちもあった。

 しかし、現状を鑑みるに、今の俺にはそのいずれもやれる余裕がなかった。

 こんな事を言っていると、なんだか珠理に全ての時間を奪われて怨んでいると思われてしまうかもしれないが、そういったわけでもない。俺にとって妹の面倒を見る事はもはや当たり前の日常で、それ以上でもそれ以下でもなかった。全く無理はしていない……とは言いきれないけども、何とか削れるものは削って上手く生活を回している。そうやって生活を回すだけの日々だ。

 自分の事よりも、母さんが最後に遺した『珠理をお願いね』という言葉の方が大切だった。母さんの最後の願いだけは絶対に守らなければならないと思っていたのだ。


 ──或いは……俺も親父と同じで、珠理の面倒を見る事で、母さんの死から目を背けてるのかもしれないな。


 何となく俺はそんな自分の本音を感じつつも、信也のバカ話に笑い、束の間の放課後を過ごすのだった。

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