第2話 伊宮弥織という女の子

 ──終わった。完全に終わった。


 授業が終わり、終礼前の僅かな休み時間……俺は自分の席で死んだ様に突っ伏していた。

 まずは、伊宮さんに昨日の誤解を解こうと思って朝一で声を掛けようと試みた。しかし、近付いてきた俺に対して、彼女は大袈裟なほどにびくっとして、避ける様に友達のところまで逃げて行ってしまったのである。

 その後、彼女は俺の方をちらちら見るものの、目が合うと視線を逸らされてしまう。まるで、町中でやばい人と目が合ってしまった時の様な反応だ。さすがにこれはまずいと思い、何度か彼女に接触を試みたが、結果は全て同じだった。

 そして、焦った俺のこの行動が良くなかった。

 同じクラスの中で、普段から特段話していない二人の男女が、異常な程互いに意識し合っている──しかも片や近付こうとしており、片やそれから同じ極同士の磁石のごとく逃げている──となれば、何かを邪推するというのも仕方がない話である。

 その日の午後には、『真田依紗樹さなだいさき伊宮弥織いみやみおりに告白し玉砕したが未練たらたら。ストーカーになりつつある』という一〇〇%誤情報が広まってしまった。更にはクラスの女子も伊宮さんを俺から守るかの如く、目を光らせている。誤解を解くどころか、新たな誤解が当事者とは別のところで生まれており、もはや絶体絶命だ。

 唯一の救いは、『お母さんになってくれ』発言に関してはまだ周囲には漏れていないらしく、ぎりぎりのところで俺の社会生存権が守られていたところだろうか。俺の危ない同級生へのバブみ趣味──完全な誤解なのだが──までバラしては立つ瀬がないという、彼女のせめてもの情けなのだろうか。

 そう考えると、伊宮弥織は思ったより優しい女の子だった。これで『お母さんになってくれ』発言まで公にされてしまえば、もはや俺の高校生活は完全に終焉を迎えてしまう。

 というより、これらの噂は全て周囲の憶測から広まっていった話であり、伊宮さん自身は何も発していないのである。彼女の温情には感謝せざるを得ない。


 ──いや、元々そういう事はしない子だったっけか。


 友達と楽しそうに何かを話している伊宮弥織を横目で盗み見しつつ、俺は彼女について思い返してみる。

 伊宮弥織と言えば、このひじり高校では有名人だ。入学早々に〝学校一の美少女〟の称号を得るほどのルックスの持ち主で、聖高ひじこうの生徒であれば誰もが知っている存在だろう。

 黒髪で清楚、どこぞのアイドルかと思うくらい可愛くて、モデルの様に細い。よく気が利き、慎ましく穏やかな性格をしている。それでいて成績も優秀と言うのだから、まさしく非の打ち所が無かった。

 きっと同じ学校の男子であれば、一度は憧れた事があると言っても過言ではない。それは俺も例外ではなく、同じ教室にいる彼女を気付けば目で追ってしまっていた程だ。昨年から引き続き同じクラスになれたというのは、幸運以外の何ものでもないだろう。

 こうした立場から、彼女はよく男子生徒から告白を受けているのは想像に容易い。しかし、彼女はその告白を承諾した事はないし、その受けた告白に関して自分から他人に言う事はないのだと言う。

 誰々が告白した、というのは大体が男子側が『伊宮に告って振られた』と自分から周囲に言った事で知られる事が多いそうで、彼女本人から告白については漏らさないのだ。おそらく、相手のプライバシーや気持ちを察して、言わない様にしているのだろう。

 これらの事から鑑みると、彼女はとても優しい子である事が推測できる。そういった思い遣りも男子から好かれるポイントだ。

 だが、伊宮さんに告白まで辿り着くのは、なかなかにハードルが高い。というのも、彼女はそもそもそれほど社交的ではないのだ。よく気が利いて穏やかな性格ではあるが、引っ込み思案で内気──俺が遠目で見ている限り、そういった類の女の子だった。

 また、部活もやっておらず、男子との交流はほぼ無い。クラスの中でも大人しい女の子達のグループに属しているので、余計に男子にとっては近寄りがたい存在だ。

 しかし、彼女のそういった性格や近寄りがたさは、男子にとっては好ポイントだった。お淑やかで大人しくて、内気な美少女──彼女はそういった、ある意味男の理想を体現しているかの様な女の子だったのである。それは謂わば美少女が持つ処女性、男が持つ夢というものを完全に押さえているとも言えた。その幻想が男の想像を掻き立てて、更に夢を与えているのだろう。

 彼女の性格や環境も相まって、仲良くなった男子もいなかった。いや、大半の男子が深い関係を持てなかったのだ。勇気を出して話し掛けるも、彼女が気まずそうにするので会話が弾まず、結局男側が撃沈する。

 それは運動部で人気のある男子から告白されても同じらしく、どんなイケメンでも粉砕する鉄血の意思を持つとさえ言われていた。まさに鋼鉄の処女アイアンメイデンなのだ。


 ──男子が苦手なのかな。でも、告白してきた男子の心を無碍にはしないってところか?


 優しさは持っているが、その心の内に辿り着くまではそびえ立つ鉄壁をいくつも乗り越えなければならないという事だろうか。

 ただ、そうした優しさがあるならば、少しでいいから俺の話も聞いて欲しいと思うのだけど──そんな不満を持ちながらも、どことなく教室に居心地の悪さを感じた俺は、トイレにでも行こうと席を立つ。


「あの……ッ」


 教室の廊下へと向かって歩いていると、伊宮さんの席の横を通った時に、声が聞こえた。

 驚いて声のした方を向くと、なんと伊宮さんが俺の方に向かって、遠慮がちに手を伸ばそうとしていたのだ。


「え?」


 驚きだった。先程まであれだけ逃げ回られていたのに、向こうから声を掛けてきてくれたのだ。

 どういった経緯かはわからないが、これは誤解を解くチャンスでは──そう思った瞬間に、まるで姫様を守る護衛騎士のごとく、他の女子数人が俺と伊宮さんの間にすっと割って入ってくる。俺をストーカー男だと言ってはばからない女子軍団だ。


「なに、真田。なんか用?」


 その中でもごつい女子が、威圧する様な視線を向けてくる。

 めちゃくちゃ怖い。タックル一発で吹っ飛ばされそうだ。きっと前世はボス・トロールだったに違いない。


「い、いや……何でもないよ」


 俺は肩を竦めてそう言うと、再び廊下へと向かう。

 去り際に横目で伊宮さんを見て見ると、彼女は何処か申し訳なさそうな顔をしながら、肩を落としていた。

 それにしても、どうしたのだろうか。先程まで避けられていた様に思ったのだけれど、もしかして、誤解がある事を察してくれたとかだろうか?

 ただ、それにしても、この親衛隊のガードの固さである。伊宮さん自身も、思った様には動けないらしい。このあたりが彼女の引っ込み思案な性格を示していた。彼女は周囲の圧力を押しのける事ができず、流されてしまうところがあるのだろう。


「やれやれ……前途多難だよ、どうしよう」


 その現状を見て俺はそうぼやくと、トイレへと赴くのだった。

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