脱学校的人間(新編集版)〈15〉

 教育の「問題」とは、あらかじめその問いの解が設定された上で問題化されていると考えることができる。ゆえに一般に何らかの「教育問題」が考えられるとき、そのような問題を生じさせる「構造」が実は制度そのものによる作用であるということを、それこそ「構造的に見落とされている」あるいは「意図的に見逃されている」のである。だから、たとえいくらその問題点に即して現行の教育内容を見直し、より望ましい教育に作り換えたとしても、それはいずれまた何らかの問題をはらむものとなるだろう。

 しかし、それはむしろ「制度が望むところ」なのだ。そのような問題が見出されてくる限り、教育は常に人々の議論の的になる。その議論の中で教育は、人々に絶えず注目され続けることになる。「このように見てほしい」という制度側からの要求そのままの問題意識にもとづいて。


 改めて言うと、一般的に教育の問題は「教育の意図の中」でしか考えられていない、つまりそれは「いかに・どうすれば」の問題に終始する他ない。そして、人々の教育に対する問題意識あるいはそれに対する欲求・要求を、そのような「いかにして」という限定された方向へ向かうよう仕向けること、実にそれ自体が「教育の意図するところ」なのである。学校の社会的機能について、それが「教育についてのみ」議論されればされるほど、「その他の機能」について議論されることもなくなり、人々の意識や視線をそこから逸らせて、思うがままに自らの持つその機能を発展させることもできるところとなるだろう。

 制度とは基本的にマルチタスクな機能を持つものとして設計されるものである。人が恣意的に行動することによる結果の不確実性を回避するために、あらかじめ多角的かつ重層的な方向に関連づけられて機能することが、制度には要求されている。なぜならそれが機能すべき領域である「社会」とは、まさしく多角的かつ重層的に構築されているからだ。ゆえにあらゆる社会的制度は、一見してあたかもそれが「一つの機能」に特化されているように思われても、実際には社会の多方面にわたって大きな影響をおよぼすことになっている。

 しかしそれでも人は、その制度に冠せられている名に表象される「一つの特化された機能」のみを見るだろう。そういった人間の生来的な視野・視角の乏しさこそ、制度が構築されることとなる要因でもあるわけだが、それゆえにまさしく制度の持つ多角的・重層的な影響力は、人の死角に隠れ、その特化された一つの機能の「表象」の陰に隠されることになる。それに乗じるようにして、人知れずその影響力による侵食範囲を拡大させていくことも、ある意味それは制度にとって隠されたミッションの一つでもあると言えよう。


〈つづく〉


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