脱学校的人間(新編集版)〈13〉
全ての人間が、何らかの形で学校を経由して社会に送り出されてくる。逆に言えばそのように学校を経由した者のみが、人間として社会的にその存在を認められるところとなる。その認証プロセスを担うのが言うまでもなく、社会的制度・機能としての学校である。ゆえに学校は社会的であり、社会は学校的なのだ。
まずはそこで、まさしくその名において象徴される「学校」の教育的な機能について、それがいかに人間の生活全体にわたってその制度的な影響力を及ぼすものであるかを考えていこう。
学校とは何よりもまず「子どもたちを教育するところ」であると、人々は何の疑いも持たずに考えていることだろう。ではその「教育」なるものとはそもそも何なのか。
山本哲士によれば、教育と呼ばれているものには「諸個人の潜在的な能力を引き出す機能と、教化(教え込む)という機能、さらに社会的に人間を選択・選抜していく機能に加え、子どもの世話をするという四つの機能」(※1)を備えているのだと言えるが、現状としてはそれら全ての機能が学校に独占されており、むしろ意図してそれらの社会的な機能を、学校のシステムに一元化あるいは「集中化し、中央集権的」(※2)な制度に作り上げられたのが、すなわち近代的な公教育・学校制度なのだ、ということである。
また、エーリッヒ・フロムによると「教育の社会的機能」とは、まず何より「個人が社会において果たすはずの役割を、その通りに果たしうるような資質を与えること」(※3)であり、また「個人個々それぞれの性格を、一般的な一致をみているところの『社会的性格』に近づけ、個人それぞれに持つ願望を彼自身が担う社会的役割に一致させるよう形成する」(※4)ものとして制度設計されていると考えられる。その上で、「個々の個人が社会的に要求されている、個々の社会的役割の型にそれぞれ相応するよう、それら個々の個人が一般的・社会的人間に形成されていくプロセスにおいて、その根拠である社会的・一般的要求を、それぞれ個々の個人的性質に変形させ」(※5)ていくことになる。すなわち先に挙げたような「個々の性格を社会的性格に近づける」工程と共に、今度は逆に「社会的性格を個々の性格に還元していく」工程が、ここで同時に加えられているということにもなる。
社会からの需要と、その社会の中で生きている諸個人からの需要に対して同時に応えうる、社会的・一般的人間の形成を担う機能=方策が、学校という制度の中において一致し、かつその機能=方策にもとづいて形成される社会的人間の、それぞれ個別の社会的能力を決定づけることとなる学校教育の社会的機能とそれによる社会的な成果が、社会とその中で生きている諸個人双方の、学校教育に対する需要をさらに高めている。
さらに加えて柄谷行人によれば、そのような社会的・一般的人間形成のプロセスの起点として位置づけられる、義務教育制度のもとに「子どもを年齢別にまとめてしまうことによって、それら子どもを抽象的・均質的なものとして引き抜く」(※6)こともまた、制度としての学校の機能であると言える。
つまり、それぞれ何の関連もなくバラバラに生まれ育った人間を、ただ「同年齢である」というだけの関連性の下でひとまとめにし、その互いに何の関連もなくバラバラに有していたところの個別性を、「ただ同年齢であるというだけの、抽象的な関連性」に置き換えてしまえば、人はかえってそれによって、互いにあたかも何か「同質性があるように思えてくる」のであり、人に「そのように思わせる機能」を学校は担うことにもなる。なぜそのような機能が学校に必要なのかと言えば、それはそのような「同質的・均質的な人間が、社会的に必要とされているから」であり、その必要を満たす機能を担いうるものが、この社会においては学校の他にはないからである。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 吉本隆明・山本哲士「教育 学校 思想」
※2 吉本隆明・山本哲士「教育 学校 思想」
※3 フロム「自由からの逃走」
※4 フロム「自由からの逃走」
※5 フロム「自由からの逃走」
※6 柄谷行人「日本近代文学の起源」
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