脱学校的人間(新編集版)〈7〉
人は学校によって、あるいは学校によってのみ「社会的に人間となる」ように教えられ、そのような「社会的な人間になる方法」を学ぶのだというように一般に人々には考えられていることだろう。そのように一般的に考えられている「社会的な人間のなりかた」というものとは、「人間であるため」に必要な技術・教養・慣習・規則・礼儀・道徳・秩序として、具体的でありながらなおかつ「一般的なもの」として、学校を通じて「全ての人々を対象にして」与えられることとなるのである。
ところでその「社会的な人間になる」ということは、一体どういうことか?
それはまさしく「社会的に有用な人間になる」ということであり、それは具体的には「社会的に有用であるような、生産的な労働を担うことができる人間」であり、かつ「社会的に有用な価値を生み出すことができる、生産性を有した人間」であるということになる。そのような人間一人一人が、よりよい社会を作り上げる担い手になるということ、それこそが個々の個人の「価値」でもあるのだと、全ての人間がそこから社会に送り出されてくる「制度=装置」である学校を通じて、社会的に統一された価値の体系として形成されていく。
一方でこの、人が社会的な人間になっていくプロセスとは、学校を経由することによって全ての人間に開かれ、全ての人間に適用されているものでもある。誰もがこのプロセスを経由すれば、社会的に有用な存在として、その社会の中で一定の位置=地位を占め、各々の「能力」にふさわしい社会的な役割の担い手として社会的に認められると、「この社会」では考えられ信じられている。
このように「価値の意識と自己実現のルートが一元的に制度化された、学校なるもの」(※1)とは、「これだけの努力をすればこれだけの社会的リソースの分配に与かれるという見通しが立ち、努力と成果の相関が予測できる社会システム」(※2)として機能するものである。そしてまたこのシステムは、「努力が報われる職業社会」という前提のもとに、「何度かの分岐を経て、子どもたちを自動的にある職業や、ある社会階層に振り分ける」(※3)システムでもあるわけだ。
たとえその「振り分けられた結果」が、それぞれ必ずしも自らが望むようなものではなかったとしても、しかし少なくとも「誰もがもれなくどこかしらに振り分けられはする」ことになるのである。なぜなら「誰もがもれなくそのシステムを経由して、社会に送り出されることになる」のだから。
ゆえにもし、あなたが自分の努力に見合うように振り分けてほしいと望む限りであれば、少なくともそれは「もれなく」叶えられることになる。しかしその振り分けられた結果は、あくまでもあなた自身の努力の結果なのである。
「全ての人々の見通しの立つ将来へのルート化と、それへの振り分けの機能」を持つことによって、学校は「社会統制の主役」(※4)となり、また一方で社会発展の「自由な協力の主役」(※5)となっていくのだとイリッチは考察する。
「…学校のこの二つの機能は「よい社会」----高度に組織化され、円滑に機能する組織をもっていると考えられた社会----がいつでも用いることのできるものであった。…」(※6)
そしてまたこの機能は社会の中で生活する人々の、この社会に対する一つの共有された「神話」によって支えられているともイリッチは言う。
「…この現代の神話は何か一つの過程があればそれは必ず何か価値のあるものを生み出すということ、またそれゆえに一つの生産活動は必然的に需要を生み出すと信じることに基づいている。…」(※7)
そこで彼はこの「価値の無限循環の物語」を、「終りのない消費という神話」(the Myth of Unending Cosumption)というように名づけている(※8)。そしてこの「求めるものは必ず作り出され、必ず与えられる。そして必ず与えられるものは必ず求められ、ゆえにそれは必ず作り出される」という、「欲望の自動機械についての神話」あるいは「神秘のない世俗的な神話」は、一方ではまた現実の人々の生活や、それを形成する諸行動を意義づけるものとして、社会的な信仰の源泉ともなっていく。
「…学校は近代化された無産階級の世界的宗教となっており、科学技術時代の貧しい人々に彼らの魂を救済するという約束をしている…。」(※9)
学校や教育によって「よいもの」としてもたらされる価値や制度は、「よりよいもの」を欲求する人々にとってはもはや信仰の対象でさえあるとイリッチは考える(※10)。そして学校が、あるいはその学校で受ける教育というものが、社会的な生活においては有益・有用なものであり、意味・価値のあるものなのだということが人々に意識されると、その意味・価値をめぐって人々の学校や教育への要求・欲求もどんどんと高められ、さまざまに多様化されていくことになると言う(※11)。
それぞれ自分自身にとっての「よい教育」あるいは「有益・有用な教育」のあり方をめぐって、人々はそれぞれに、かつさまざまにその思いをめぐらしては、それぞれその自らの欲求を大いにふくらませ、その欲求を充足させる対象として、直接にその矛先を学校や教育へと結びつけていくことになる。「学校化された社会」においては、人々はそれ以外にその要求・欲求を実現し満たしていくような「仕方」を、現実の生活においてはいささかも思い至ることがないのだから、そのようになるのは至極当然のことなのである。
そして人は、自分自身の社会的な価値を高めるために、学校あるいは教育を利用していたつもりでいるのだけれども、しかしむしろ学校や教育に基づいた価値、あるいはそれによって形成された価値でしか「自分の社会的な価値」を構築し高めていくことができなくなっていく。そして結果的に人は、「それによる価値」しか価値として認められなくなる、あるいは信じられなくなるのである。
〈つづく〉
◎引用・参照
※1 上野千鶴子「サヨナラ、学校化社会」
※2 内田樹「下流志向」
※3 内田樹「下流志向」
※4 イリッチ「脱学校の社会」
※5 イリッチ「脱学校の社会」
※6 イリッチ「脱学校の社会」東・小澤訳
※7 イリッチ「脱学校の社会」東・小澤訳
※8 イリッチ「脱学校の社会」
※9 イリッチ「脱学校の社会」東・小澤訳
※10 イリッチ「脱学校の社会」
※11 イリッチ「脱学校の社会」
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