脱学校的人間(新編集版)〈4〉
学校化は、現実の生活の中においては全くといっていいほどそれと意識されるようなこともなく、一体何をもってそれが学校化なのであるかなどということが、具体的に目に見えて見出されることも、あるいは実際に手に取って確かめられるようなこともない。なぜなら、現実の生活そのものが全く学校化しているからだ。
このようにして学校化という概念は、現実に生きられている生活の様式そのものに染み込み、そしてそのような生活様式の学校化において人々の現実の生活は、「基本的な価値基準が同一化」(※1)されていくことになる。
人々の現実の生活の基本的な価値基準が同一化されるプロセスを、イヴァン・イリッチは「価値の制度化」と呼ぶ(※2)。彼の考えにもとづくと、人々の現実生活の基本的な価値体系が制度的に形成されていくのにしたがって、人々の個々個別の生活様式も同様に制度化され、ある特定の生活様式がまさにその価値体系を形成する基本的・基準的な生活様式として、人々の現実生活そのものを制度化していくと見ることができる。そしてその価値体系を形成する基本的・基準的な生活様式こそが、価値そのものを形成するものとして人々に意識され、それのみが価値のある生活様式であるとして、あまねく人々に受け入れられるようになるわけである(※3)。
制度的な価値形態は、結果として得られるものであるはずの「価値」が、その生活様式の中にすでに前提されているかのように形成される。それが制度化された形式でもって、人々の生活自体あるいはその全体を制度化していき、そしてその制度化の中心にあるツールこそが、言わずもがな「学校」なのである。
人々は思う。学校で教育を受けるということに「価値」がある、それを「全ての人間」が享受するということにはなおさらの「価値」がある。実際に「そのような価値観」において生きている限り、教育について人々が考えるときには、それが誰であろうとも「学校以外に教育の様式を考えつかないほど」(※4)に、直接的に教育は学校的な様式=手段=方法と結びつけて考えられているのである。
そしてそれはただ教育にとどまるものではなく、社会的価値の一切にまでおよぶこととなるのは言うまでもない。言い換えると、そのように教育のみならず社会的価値の一切を制度化する機能としてこそ「学校には価値がある」のだ。
価値は学校によって制度化され、そのように制度化された価値の他には、社会的に価値としてはいっさい機能しないものだと見なされることになる。そして、そのような社会的な価値の体系、あるいは「価値に対する認識の体系」が、制度としての学校を中心にしてできあがっていくことにもなるわけだ。
〈つづく〉
◎引用・参照
(一部、筆者による文章の要約もしくは変更あり。以下同)
※1 山本哲士「学校の幻想 教育の幻想」
※2 イリッチ「脱学校の社会」
※3 イリッチ「脱学校の社会」
※4 山本哲士「学校の幻想 教育の幻想」
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