脱学校的人間(新編集版)〈2〉
一般に人は、自らが社会で生きていくためには何らかの教育を受けることが必要であり、そのために学校はつくられたのだと考える。しかし、実際にはその全く逆なのである。
まず、「人々が社会の中で自らの存在・生命・生活を維持していくためには、たとえば教育などの社会的なツールを必要としなければならない」といった社会的な必須条件を、人間全般に対して構造的に課せられている。そして、そのようにすることによってようやく維持運用が可能となっているような、「社会」という生活環境システムについて、まさにその社会の中に生きる人々自身が、その維持運用の必要性を絶えず意識し続けていることが、むしろ社会自身が自己存続していくためにけっして欠かすことのできない必須条件となっているのである。
学校とは、まさしく人々にそのような「必要」を発見させる場となるのだが、上記に述べた通りそれは「社会自身にとっての必要」であるのに他ならない。人々に「それさえあればこの社会の中で生きていけるのだ」というように意識させ続けることが、社会が自らを維持させていく上で是が非でも必要なことだった。学校は、その必要を実現するために用いられるツールなのである。
そして、この社会を維持していく上でこれは必要不可欠なものなのだと、自らもその中に生き、それが必要となるような生活を重ねる中で、人々はそういった「社会にとっての必要」を、「自らにおいてもまた必要であること」として同時に意識していくようになる。そのように意識していく中で、人々もまた自らを「ツール化」していくことになるのだ。
では一体、人は何のツールになるのか?
それは言うまでもなく「社会の」ということである。そしてそのように社会のツール化を深めていくにつれて、人の社会や教育への依存も強まっていく。
自分自身の現に生きているこの社会が、何となくうまくいっていないように感じられる。ところでこの社会は、誰もが何らかの教育を受けることによって「うまくいく」ように設計されている。そこで人は「学校をどうにかすれば、社会もどうにかなるだろう」などと考えるようになる。あるいは「社会をどうにかするためには、学校をどうにかしなければならない」と考えるようになる。人は「自分自身のために」どうにかしなければならないと思って動き出したところが、結果として「社会のために」なっていく。その間で用いられるツールが、まさしく「学校」である。
人が「自分自身のために」呼び起こしたツールである学校は、しかし社会の方でも「自分自身のために呼び起こしていたもの」なのであった。それを「自分から呼び起こすまでもなく、向こうから呼び起こしてくれた」というわけだ。自分の方の必要を押しつけるまでもなく、自分たちの方から必要としてくれる。それはまさしく社会にとって目論見通りなことなのである。
人は自らが必要とするもののために学校を呼び起こすことで、逆にこの社会が必要とすることのために用いられるツールとなる。人と社会と学校。それらの「固い結びつき」の中でしか生きることのできなくなった人々は、もはや自分たちと学校および社会を切り離して見ることができない。そのような人々の「生存の維持」において、人々自身の意識や行動様式が「ツール化−機能化−制度化−学校化」されることはもはや不可欠であり、かつ不可避である。
もしもそのような社会において「学校的でないこと」があるとすれば、それはその社会の中で生活を維持する上で極めて重大な「社会的欠如」なのだと一般に認められるところとなる。ただし、そのような社会的な欠如は、実は一方で社会的な欲望をも生み出す。自らの中に欠如しているもの、「満たされていないもの」を見出したならば、人は必ずといってよいほど「その穴を埋めたくなる」ものであろう。
ゆえに社会的欲望とは一貫して「学校的」なものである。そして実際に学校があるかないかに関わらず、社会は必ず学校化する。むしろ「実際にはまだ学校がない社会」の方が、学校化はより強力に促進されることになるだろう。人間をより強く動かすものとは、何よりもまず「欠如=欠乏」の意識にもとづく欲望だからだ。
〈つづく〉
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