第38話・愛おしい人の声
「あの、お名前を、教えていただいてもいいですか?」
徐々に薄れていく姉の記憶。これは彼女がそうさせているのか、それとも私が自発的に消しているのだろうか。
「……いやだね。どうせ忘れる」
確かにそうだ、ごもっともだ。
「そうですか。地球には埋葬という文化があるんです。貴女にもぜひと思ったんですが、ただの気まぐれです」
「マイソウ? なにそれ。それよりもっと建設的な話をしよう。まずは」
「いえ、話すことはありません。あなたが誰だか知らないですけど、次の
彼女の右腕に刺さった十字架を引き抜いて、少しずらした場所にもう一度刺す。出血量を増やす。
漫画は――特に日本の漫画は変だ。手首を切ったら重症みたいな描写をする時があれば、腕一本切れ落ちても余裕みたいな事もある。
だけどそんなのは当たり前で、一作品一作品ごとに、世界観が違うわけで、ルールが違うわけで。
そして彼女には、出血死というリミットが、ショック死というゴールがあるのは、なんとなくわかった。
ほんの少しだけだけど、人間に似ている。
(誰だっけ、この人)
私はいま、この人にとどめを刺そうとしている。その昔、とても大切だったような、そんな気がする人。
でも、呵責なんて、ない。
だって私は今浮世さんとトーコちゃんが大好きなんだもん。私にとっての大切な存在はこの二人なんだもん。
それで浮世さんは神様。日本の、地球の神様。
トーコちゃんの付き添いで、何度か地球においての死後の世界に行ってみたけど、あんなにずさんな場所は初めて見た。そこに七十億人を一気に送っても立ち行かないのは明白で。
たぶん、浮世さんが怒られちゃう。そんなのダメ。浮世さんを怒るなんてダメ。浮世さんに怒られるなら――いいけど。
「っ」
彼女と目が合った。
違和感。
というより、なんとなく気分が悪い。流石に、大嫌いで憎い姉とはいえ、視線を交差させただけで吐き気を催すことはないだろう。
「なにをしたの?」
「……ははは。これが私の全力全開ってやつさ」
「早く答えて」
「おーこわ。単純なことさ。私の命と、お前の記憶をリンクした。つまり私が死ねば、お前の記憶は無くなる。一からやり直しだ。お前が生きてきた何千万年という時を失うって意味」
「はぁ。今更何千万年なんて脅しになると思うの?」
さて。
彼女の切り替えについてはわかる。つまり、浮世さんが人質にならなくなったので、今度は私の記憶を人質にしてくれた。
どこまでも卑怯で、非力な存在だ。
しかし残念ながら――流石に命を懸けているだけあって――私はこの呪いにも似た能力を解除できなかった。
あらゆる法則を無視した、凶悪な力。
「ははは。ならないねぇ。でも、この直近八年間なら、なる。そう確信済みだ」
「……」
八年。
私とトーコちゃんが出会ってからの、八年。
「お前はその強大過ぎる力をぶつけられるものを求めていた。ずっとな。だから私が存分に振るえるよう仕向けてやったのに……結果はまさかの情にほだされ、献身的になり、ヤンデレ堕ち。見てられなかったね。だけど同時によくわかった」
見てられなかった。って。見てたんだ。気持ち悪い。
「あれがお前だ。普通に勉強をして、普通に恋をして、普通に嫉妬して、普通に尊敬して、普通に生きる。それがお前の望んだ姿、お前がなりたかった未来だ。さあて。お前はそんな今を無くせるかな?」
「…………」
「久慈川はお前が危険な存在だとわかった上で匿った。お前が最強の存在だと知った上で天使や神々と戦った。お前を信用した。そんな風に完成したんだ。ようやく。そんな貴重な記憶を、セーブデータを、お前はリセットできるのか? 二度と、やり直しのできない形で」
「…………無理ね」
「…………ふぅ。話のわかる妹で良かった。じゃあ早速地球人を――」
「その程度の説得で私を折ろうとしても、無理」
自分の勝利を確信していた彼女は、その余裕ぶった笑みを、瞬時に強烈な疑問へと変えた。
説得の成功に関して相当の自信があったらしい。ところがどっこいそうは問屋が卸さない。
「……ねぇ、あなたは夢を見たことがある?」
今度は私からの説得。
もう生存なんて諦めてもらって、目標は果たされないと知ってもらって、それでなるべく心中穏やかに……逝ってほしいから。
「夢? なんだそれ」
「寝ているときにしか見られない神秘的な映像。私はね、よく、一つの景色を夢に見るの」
「だから、なに?」
彼女はまるで、数学の解答権でお
「夢ってね、諸説あるけど、深層意識を整理する際に見るっていう説があってね、私は今、それを信じてる」
「私の命を代償にしてるんだぞ? 記憶に貴賤はない。なにもかも全部――」
「あなたの命如きでは――私の大切な記憶には――絶対に届かない。さよなら――」
右足に刺さった十字架に手を掛ける。これを引き抜いて、心臓に突き立てればお終いだ。
もう少しいじめてあげてもよかったけど……それなりに、十分苦しんだはずだ。
トーコちゃんを
「――さよなら、お姉ちゃん」
自分が親から借りた能力を、妹に使われて死ぬ。どんな気分なんだろう。どんな気分でもないかな。他人を使い倒し踏み台にし、自己を棚上げし続けた結果天上界にいると勘違いした挙げ句にこれだ。脳のような器官や、心を司る部位がもしもあるならば、きっと処理落ちしていることだろう。
「浮世!」
引き抜こうと腕に力を入れたその刹那。
――ああ、愛おしい人の声が聞こえた。
すごいな、来ちゃったんだ。結構ひどいこと言ったと思ったんだけどな、折れずにこんなところまで、普通の女の子が来ちゃったんだ。流石だよ、トーコちゃん。
羨ましいなぁ、浮世さん。
いいなぁ、地球に生まれたみんな。
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