第26話・何も心配しなくていいよ。何も煩わされなくていいよ。何も言わなくていいよ。何も聞かなくていいよ。何も感じなくていいよ。
「久慈川ー! 係の人連れてきたぞー!」
一時間が経ち、ヒールは目覚め、おめおめとどこかへ消えた。
浮世も外崎も意識がハッキリしたらしく、どこか恥ずかしげにそそくさと去っていった。
リジュと言えばなんとなく大人な雰囲気を身に纏い「それじゃあ」とだけ言い、遠足に戻る。なんだろう、親元を去る娘を思う父親って、こんな気分?
「どこだい? 鶏小屋から外にテレポーテーションできる痴女っていうのは……」
鴫頼は息を切らしながら中年男性(警備員?)を連れて戻ってきてくれた。
安全になるまでじっとしてくれって言ってたのに……こいつ、やっぱりいいやつだな。
「あれ? いたんですよさっきまで。確実に。いたよな? 久慈川。まさか私の幻覚……?」
「君ィ……遠足中の高校生だろう? まさかおじさんをからかってるのかい?」
「いましたよ」
アワアワしはじめた鴫頼に助け船を出す。といっても、鴫頼は私を助けるための行為をしてくれたのであって、ここで私がこいつを助けるのは当たり前中の当たり前だが。
「私、驚いて腰を抜かしてしまって……その間にどこかへ行ったみたいなんです……」
「んー……にわかに信じがたいが……一応手の空いているスタッフで捜してみるか」
おじさんは、不承不承といったように、頭を掻いてこの場を離れる。大人からしてみればとことんはた迷惑だっただろうに。怒鳴りもしないなんていい人だ。
「えっと、久慈川、大丈夫だったか?」
「ああ、人、連れてきてくれてありがとう」
あの戦闘中周囲に人がいなかったのは、やはりヒールが人払いをしていたようで、私は空間が正常になるまでの間、地面に尻をつけて座っていた。
怒濤の流れで疲れてしまっていたのかもしれない。
そんな私に、鴫頼は手を差し伸べてくれた。
「…………」
「…………」
妙な間が、生まれる。
「あっえっと、外崎さんは?」
「あ、ああ、トイレに行ってる。そのうち戻ってくると思う」
「そっか」
「…………次、どこ回るんだっけ?」
「えっと、鳥類エリアの次だから……」
そうして戻ってきた外崎と共に穏やかな動物園を回った。その後は特に大きなイベントもなく、昼食時にリジュと会うこともなかった。
初めての遠足は、それなりに、満足なものとなった。
「お帰り」
初めて友達と寄り道をして、少し遅くなった帰宅時間。
既にリジュは戻っていて料理をしていたらしく、エプロン姿で私を出迎えてくれた。
相変わらず――どこか――大人びた――落ち着いた雰囲気を纏って。
×
動物園から帰ってきて……リジュがいて……それから……えっと……あれ? どういう経緯でここにいるんだっけ?
ここって言っても私の布団なんだけどさ。世界一安心できる安眠製造器なんだけど、でもいつの間に? 飯食ったっけ? 風呂入ったっけ? 歯磨きしたっけ? 何も思い出せない。
そもそも今何時だ? この明るい日差しは朝日? 夕日?
「あっ、おはよう、トーコちゃん」
「…………おは、よう」
おはよう、と、いうことは朝か。えーとじゃあ、動物園から帰ってきてすぐに寝ちまったってことでいいのかな?
「はい、コーヒー」
「さんきゅ」
熱された百均のマグカップ。安物のブラックコーヒー。いつもと同じ香り。いつもと同じ朝。
「よい、しょ、と」
さも当然かのように、私の隣に腰掛けたリジュ。
「いや、リビング行こうよ」
「なんで?」
「なんでって……飲んだら朝飯食って学校行かなくちゃいけないだろ?」
「学校? トーコちゃん、学校なんて大嫌いだったでしょう?」
「……まぁ、ね」
小・中学校は大嫌いだ。毎日毎日、校舎に隕石が降ることを祈っていた。だけど、
「……高校は悪くないよ」
「んーん、高校も一緒。トーコちゃんには必要ないの」
何を言っているのかイマイチ要領がつかめない。
会話が噛み合っていない感じすらする。
「というかね、もう必要がないようにしたの。コーヒーを飲んだら二度寝しよう? それでまた起きて、ゆっくりご飯の準備をして、眠くなったらまたこうやって眠るの」
「いや……な? リジュ」
まずは状況を整理しようとした私の唇を、いとも簡単に、リジュの唇がふさぐ。
「…………あのさ、当たり前みたいにキスするのやめてくれない?」
「やめてあげない。でも……ふふ、ちょっと苦いね」
「洒落てる場合か。……つーか……なんだろう、ちょっと眠くなってきたかも」
「そっか、じゃあ寝よう?」
マグカップをとられ、頭を撫でられ、上体を倒され、布団をかけられる。一連の動作で、一切の抵抗ができなかった。
「でも……学校……」
「大丈夫。私がなんとかしておくから」
今日は班で集まって動物園の感想を書かなくちゃいけない。どうせ外崎は適当だろうから、私が鴫頼のサポートをしてやらなくちゃいけないのに。
「トーコちゃんはもう、何も心配しなくていいよ。何も煩わされなくていいよ。何も言わなくていいよ。何も聞かなくていいよ。何も感じなくていいよ。トーコちゃんにとっての幸せな夢をずっと見ていればいいの。何もしなくて、いいの」
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