小噺

みぎひだり

音の鳴るほうへ ―inSANe『残花』HO2:お千代



 木の軋む音、荒く吐く息、散る水飛沫。



 夜通し降った大雨が上がり雲の軍隊が北の方角へと流れていく。その膝元を賑やかな音とともに人力車が走っていった。


 石が敷かれていないむきだしの通りはひどく泥濘んでいて、往来する車輪が柔らかな路面を好き勝手になぞって痕を残していく。


 道の両向かいには木造の屋敷が雑然と並んでいる。陽が古びた瓦を照らし、昨晩の盛況が嘘だったかのように鳴りを潜める軒先たちは物言わぬ影を地に落としている。


 その一軒の二階から音が零れ落ちた。



「じとっぽいね、砂埃が立つよりはましだけどさ」

 どっちにしたって手入れにはうんと手間がかかっちまうんだ。


 窓辺にもたれかかった女は、走っていく人力車と道につけられた痕を一瞥してそう呟いた。

 咲き乱れる若さの瞬きを過ぎて、美しさを熟成させ始めた頃合いの女だ。仕事を終えたばかりの顔に白粉と紅が淡く残っている。


 しばらく昇る陽を眺めて気だるそうに体を部屋へ仕舞いこんだ。

 いっとき、明暗に目を眩ませる。



 昨夜の気配が残る薄暗い部屋にあるのは鏡台、化粧箱や髪結道具、着物箪笥、わずかな筆と紙。壁に立てかけた横笛と三線は年季を感じさせる艶を放っている。


 中央に敷かれたままの平布団をどけると、ほのかに煙草の匂いが香る。

 つい、手が止まる。


「いまどきタバコなんて沢山あるのに、敷島なんてね」

 ふふ、と目を細めて微笑み、目を伏せる。


「それに軍人ときた。これで思い出さなかったらばかだよ」

 どこか言い訳のようにも聞こえる独白。窓から入った風にただよう香りを感じつつしばらくそこに座っていると、廊下から声がかかった。


「千代ちゃん、まだ片付けてないのかい」

 面倒を見てくれている姐さんは戸を開けるなり、呆れたように言った。


「店には言伝を走らせといたから、水を浴びて早く休みな」

「ありがとう姐さん。呆けていたら時間がたっちゃって」


「そんならいいけどさ、昨日は団体さんの席だったんだろう?しかも軍人さんのお相手だったって聞いたもんだから。身体は大丈夫なのかい?」

「うん、平気よ。私を取った客がいっとう図体大きかったからさ。若い子が相手すんのも可哀そうだろうし」


「あんたはそうやって……。もう早く寝支度しな。今日は九條さんの席だろう?」

 そう言われて目が泳いだあたしを見て、姐さんはニカッと笑った。


「ほら、きれいにしといで」

 満足そうな姐さんを睨んでみたが、豪胆な彼女は気にせずカラカラと笑いながら戸を閉め去っていった。


 ため息をついてまだ煙たい布団を窓辺に干した。昨日の湿気も胸にわだかまる記憶も、お天道さんと風が吹き飛ばしてくれるだろう。一息ついて着替えと手ぬぐいを持って部屋を出た。



 花街の朝は、女が化粧を落としたのと同じように別人の顔になる。今日は昨晩の雨で帰りそびれた客の声と人力車の轍で賑やかだったが、普段はとても静かなものだ。


 それが夜になれば、とたんに色艶を醸し出す。どの軒下にも寂しい明かりが灯され、格子を挟んで交わされる戯れの声が通りに響き渡る。

 料亭は宴席を、茶屋は女たちを手配して、芸妓も舞妓も娼婦も嘘ばかりのひと時を男たちに提供する。


 お千代も、そんな花街の置屋に住まう芸妓のひとりだった。



 戦争が続く中で人の移ろいが激しい世情だからか、最近は花街の客も出入りが多い。名を響かせた遊び人が徴兵されただの、社会主義思想とかで贔屓のセンセイが捕らえられただの、噂話が耐えない。

 水場に行く途中で顔を合わせた置屋の主人は太い客がまた減ったと嘆いていたが、へえと気のない返事をしてやり過ごした。


 寝支度を済ませて、陽の匂いに変わった平布団を敷き直す。少し考えて想い人から貰った香水を手ぬぐいに一吹きさせ、布団の中に潜ませた。


「ガクさん、気づいてくれるかしらね」

 目を閉じながら、お千代は思わず笑った。

 何を言ってるんだかまったく、おぼこの少女じゃあるまいし。でもあのひとは本当に良くしてくれる。それに、きっとお互い想い合っているのだ。

 たとえ報われぬとしても――



 ガクさんこと九條学と出会ったのはお偉いさんが並ぶ席だった。金融や政治や戦争の話、そして座敷遊びに夢中になっている男たちの中で、唯一あたしの曲に興味を示してくれた人だった。


 財閥のお家で日日新聞にも載るような、田舎から売られてきたあたしとは別の世界のひと。だけれど彼の声は優しくて、話せば弟のように甘えてくれる。そして軍人じゃない。

 はじめは座敷の客と芸妓として、うわべばかりのひと時を過ごした。二度目に会ったときは彼自身が席に呼んでくれたと知って、本当に嬉しかった。


 お仕事ができて、誰とでも打ち解ける立派な男。でも二人でいるときはかわいい人。自分だけに見せてくれる顔につい心を許して、気づけば彼の魅力に落ちていた。

 婚約者もいるってのに、ほんとう悪い男―― 



 想い人への悪態と惚気を考えながら、いつの間にかお千代は眠っていた。

 すうすうと息を立てる素顔は、年齢よりもあどけなく見える。


 彼女を静かに六畳間の品々が囲んでいた。

 これらは、ほとんどがここに来てから買わされたか、贈られたものだ。

 思い出はあまり持たない方がいいと世話してくれた姐さんの言葉通り、余分なものは捨ててきた。

 残しているのは故郷を出る時家族にもらった髪留め、身請けを約束してくれた人がくれた帯留め、そしてガクさんがくれた贈り物だけだ。

 ここから出られる起担ぎにと大事に仕舞い込んできたが、まだ効き目はでていない。



 落ちていく陽は六畳間を一瞬明るく照らし、そして暗い夜の帳が落ちた。

 

 

 往来に人が増え、話し声や呼び込みの口上が通りに響き渡り始めた。

 起き上がったお千代は身支度を整え、念入りに化粧をあつらえる。

 身体には上手い具合にガクさんからもらった香りが染み込んでいた。化粧箱から髪留めと帯留めも取り出して纏っていく。


 「全部持っていこうね。もう、担ぐ起はなくなったんだからさ」

 思い入れのある品々を手に取ってお千代は微笑んだ。

 

 置屋を出る時間までに書置きをしたためておいた。故郷と、姐さんと、もうひとつ。 

 迷って名前は書かないでおいた。故郷宛のも姐さんのもびっしり書いているのに、名無しのだけはあまりにも簡素な内容になった。


 『ごめんね、ありがとうね。でも、―――――――――』


 何度か筆を迷わせたあと満足して頷き、その時までと文箱にしまった。



 瞳と口に紅をつけ、一張羅を結い上げて、思い出を身体にまとい、手に取るのは使い込んだ楽器。

 明かりが灯された花街が顔を変えてゆく中、嘘と誠で塗り固めたお千代は少女のようににっこりと笑った。

 

 「さあさ、最後に何の曲を演るか決めておかないとね」



 調弦した三線を鳴らしてみると、この上なく澄み切った音が零れ落ちた。


 涙のようだと思った。







 inSANe『残花』

 誰もが秘密を持っている。



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