2-4 兄弟喧嘩
「ライアス様、どうしてこちらに」
「君の占いがよく当たると噂に聞いて、来てみたんだ」
「そうですか」
セヴィリオの兄、ライアス=シャレイアンは勧められてもいないのに、机を挟んでリアナーレの前に腰を下ろした。
ライラックのような、春の甘い香りが鼻腔をくすぐる。アイスブルーの美しい目と、血色の良い薄い唇は弧を描き、じっとリアナーレの目を見つめた。蠱惑的だが、この男に惑わされてはならない。
「二人きりで話したいのだけれど、少しいいかい?」
「夫に誤解されては困ります」
「へぇ! セヴィーに操を立てているんだ」
「妻として当然のことでしょう」
世継ぎで義兄とはいえ、夫でもない男を主の許可なしに何故通した。入浴や着替え中だったらどうしてくれるのだ。
長きに渡る軍人生活で、女としての羞恥心がかなり欠如しているリアナーレだが、こういう時だけは都合よく衛兵を責める。
「別にいいんじゃない? 夫がいない間に少しくらい遊んでもさ」
ライアスは机の上に置かれていたリアナーレの手を、そっと自身の手で包む。
鳥肌が立った。勢いよく払いのけ、ビンタの一つでもくれてやりたいところだが、それこそ処罰が下りかねない。
リアナーレは失礼のないようゆっくりと手を引っ込めた。
「いつもそうして女性を口説かれているのですか」
「いや、ボクが興味あるのは聖女様だけ」
「ライアス様もご結婚されているでしょう。お妃様が嘆かれますよ」
「あんなの、親が決めた結婚だよ。君とセヴィリオのように」
退席し損ねたルーラは部屋の隅で小さくなり、気配を消している。頼むから二人きりにしないでくれと目くばせするが、彼女は震えながら首を横に振る。
リアナーレは無意識のうちに、左手で前髪をかき上げていた。
「癖なんだ?」
「えっ」
「困ったり、呆れたりした時に前髪をかき上げるの、癖なんだなって!」
リアナーレは戸惑った。確かに癖かもしれないが、興奮気味に言うようなことだろうか。
第二王子の妃らしくない振る舞いだと、些細なことでも指摘したいのか。
ルーラは静かに使用済みの食器が乗ったワゴンを押し、部屋を出ていこうとする。
扉が開いた瞬間、リアナーレも部屋を飛び出したい衝動に駆られた。
誰か、助けてくれ。飲んだくれの実兄でも、扉前の衛兵でも良いから、この場の緊迫した異様な空気をぶち壊してくれ。
願いは虚しく、二人の邪魔をする者は現れない。ロマンチックな演出は不要だというのに、窓から差し込む夕日がライアスの髪を美しく染める。
「やっと二人きりになれたね」
「貴方が勝手に、そうさせたのでしょう」
「何言ってるの? リアナ。ボクと君の仲なのに」
いや、貴方こそ何を言っているんですか。ボクと君の仲ってどういうこと。もしかすると、本物の聖女様とライアスは、ただならぬ仲だった?
聖女様がセヴィリオに興味がなかったのも、可哀想な人だと言っていたのも、彼女が裏でライアスと不倫をしていたからだとでも言うのか。
第一王子は机に手をつき、聖女に顔を近づける。少しでも躊躇えば唇を奪われると直感し、リアナーレは咄嗟に椅子から床へと身を滑らせた。
「やめてください!」
「あはは! 冗談だよ」
「冗談って……」
今、本気でキスをするつもりだったでしょう。
リアナーレは立場を忘れてライアスを睨みつける。彼は、自分がしたことの重大さに気づいていないようだった。
「僕と聖女様の間には残念ながら何もなかったし、これからもないから安心して」
この男は一体何をしに来たのだ。彼の笑顔の裏に潜む心理を見いだせず、リアナーレは床に座り込んだまま、相手の出方を伺う。
沈黙と静止に耐えられず、そろそろお引き取りくださいと言おうとした時だった。
「ここで何をしている!」
重たい扉が勢いよく開き、息を切らした救世主が現れる。
遅い。遅すぎる。リアナーレが大人しく、反射神経の悪い人間だったら、地位と権力を利用した不貞行為に巻き込まれるところだった。
「あれ、もう帰ってきたのか」
「人の妻と二人きりで、何をしていると聞いている」
セヴィリオはいつになくいきり立っていた。溺愛する聖女様を他の男、しかも実の兄に盗られそうになったのだから、怒って当然の状況ではある。
しかしながら、感情を露わにすることが少ない彼が、ここまで憤慨するのは非常に珍しいことだった。
長年心の奥底に溜まっていた粘度の高い熱が、一気に押し出されたような怒りだ。ぶるぶると身体が震え、セヴィリオは今にも兄に殴りかかりそうだった。
その様子をもってしても、ライアス=シャレイアンは第一王子の余裕を無くさない。顔には薄っすら笑みさえ浮かんでいる。
「ただ話していただけ」
「二度とリアナに近づくな」
「善処するよ。ところで、君の妃はいつから人が変わってしまったの?」
リアナーレは内心、ライアスを恨む。彼が暴挙に出なかったら、もう少し上手くリアナーレの本性を隠すことができただろう。
「うるさい、黙れ。さっさと出ていけ」
「はいはい、邪魔者は退散しますよ」
セヴィリオは兄の発言に動揺することなく、彼を部屋の外へと締め出した。
――君の妃はいつから人が変わってしまったの?
聖女様が一度死んだ後、おかしくなってしまったことなら、セヴィリオが一番理解しているはずだ。
それでも、セヴィリオは聖女様を愛している。きっと、それほど深い愛なのだ。
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