2-5 お帰りなさい *
「大丈夫? アイツに何もされてない?」
「大丈夫。ありがとう、助かった」
兄、ライアスが去った瞬間、セヴィリオは甘ったるい空気を纏って聖女様に問う。
発狂するといけないので、キスされそうになったことは黙っておく。
差し伸べられた彼の手を取って立ち上がると、リアナーレはそのまま抱き締められた。
「遅くなってごめん」
「間に合ったから大丈夫」
清潔感溢れる石鹸の香りに混じって、少しだけ汗の匂いがする。不快だとは全く思わなかった。手紙に書いてあった通り、できるだけ早く、急いで帰ってきたのだろう。
嬉しかった。まるで自分が愛されているように感じてしまい、リアナーレの心はぐずぐずと溶けていく。
聖女様のふりをする時間が長くなるにつれ、リアナとリアナーレの境界が曖昧になり始めているのだった。
「あと少し早く帰ってきていれば、こんなことにはならなかった」
「私の油断が招いたことでもあるから。ごめんなさい」
「リアナは何も悪くない。アイツが無理やりこの状況を作ったんだ。すれ違ったメイドに聞いた」
流石、溺愛されているだけである。男と密室で二人きりになるという失態を、セヴィリオは責めない。
「会いたかった」
彼の掠れた低温が耳元で響く。リアナーレは恐る恐る、軍服姿の男の背に手を回した。
「お帰りなさい」
「うん、ただいま」
セヴィリオの腕に力が籠もる。痛いくらいに体が密着し、相手の心臓の音までも聞こえそうだ。
リアナーレは彼の胸に顔を埋めたまま、上を向くことができなかった。紅潮しているだろうから、見られたくなかったのだ。
「手紙、返事しなくてごめん」
「いいよ。どうせ返事はもらえないだろうと思っていたから」
セヴィリオはそう言って眉尻を下げた。こんなに殊勝な男だったか。リアナーレは一瞬胸が痛み、ごめんなさいをもう一度繰り返す。
「そんな顔をしないで、リアナ」
「あ……えっ……」
抱擁が緩んだ代わりに、彼はリアナーレの頬に手を添える。みっともない顔を見られた。動揺した刹那、唇同士が触れ合い、すぐに離れていく。
ライアスに迫られた時は心底嫌だったのに、今感じるイヤという気持ちは、恥ずかしさからこみ上げてくるものだ。
「今日は会えなかった日の分もキスをする」
いつもは曇って重たげな目が、聖女様を映して笑っている。
「二週間分?」
「二週間と三日分。十七回」
「十七回って、数えるつもり?」
「約束だからね」
彼の真剣な様子にリアナーレは思わず吹き出した。少しだけ緊張が解け、同時に少しだけ大胆になる。
「今日は数えなくていいから。その代わり程々にして」
「いいの?」
頷くと、セヴィリオは目の色を変え唇へと食らいつく。
「……ん、ふ……、……っ」
勢いのわりに、優しいキスだった。回数制限がないのをいいことに、彼は何度も唇を重ね、深く聖女様を求める。
「ごめん、加減できない」
「程々にって言葉、理解してないでしょ?」
リアナーレは机に置かれていた砂時計をひっくり返す。砂が落ちきるまでの半時間だけは、彼を受け入れよう。
「私、不満があるの」
リアナーレは先程まで熱烈なキスを交わしていた唇を、指でなぞって確かめる。このままにしておいたら腫れそうだ。
すっかり上機嫌の第二王子は、聖女様を背後から腕の中に閉じ込めたまま、離してくれない。
二人はいつの間にかベッドに移動しており、純情なメイドがこの様子を見たら事後だと勘違いするだろう。
「もっとする?」
セヴィリオはそっと、リアナーレの頬を指先で撫でた。このままでは危ない。いつ流され、先へ進んでしまうか分からない。
「しない」
不埒なことを考えているであろう彼の手を、リアナーレは優しく退ける。
「じゃあ何」
「私はずっと、この部屋に引き籠もり続けなければならないの?」
「その必要はないけれど、僕の目の届くところにはいて欲しい」
「目が届くところってどこ」
セヴィリオはさほど考え込まず、あらかじめ決まっていたことのようにさらりと答えた。
「この棟の庭先に、母上の薔薇園がある。そこをリアナにあげる」
「あげるって、どういうこと」
「父も兄もあの場所には興味がないから。母が亡くなってからは、一応僕の物になってるんだ。リアナの好きにしていい」
亡き王妃様の薔薇園なら、リアナーレも幼少期に何度か訪れたことがある。旧知の仲である母親同士がお茶を飲んで語り合う光景が、薄っすら記憶に残っている。
「あそこ、テラスあるよね」
「うん、誰か呼んでお茶でもしたら。但し、男はなしね」
「ありがとう!」
リアナーレは明日早速、足を運ぼうと思うのだった。
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