妻不孝

茶碗虫

本文

 その客はよく店に来た。金が有り余っているというわけではなかったが、長年連れ添った妻が亡くなってからというもの、話し相手に困っているようだった。そこで、旧友である私の居酒屋によく転がりこむようになった。


「もうネタもないだろうに。アンタが店に来るようになってから、もううんざりするくらいの昔話を聞いた」


 その客はしばしば、私の古い記憶に残っているのと同じ素朴な笑顔を見せる。そう、今みたいに。


「お前の店がギリギリなことを知って来てるんだ。たまりにたまった昔話くらいさせてくれや」


 彼はいつも、こうやって酒に酔っているかのようなテンションで絡んでくる。酒を出さない居酒屋で酔うことができる唯一の客である。

 彼は水を一口飲んだ。口を右手の甲でぬぐって、正面に立つ私を見る。


「でも、今までのはほんの暇つぶしに過ぎない。本当に話したいのは、俺の妻についてだ」

「だろうなと思ったよ。まあ、俺もアンタに負けないくらい暇だから、聞いてやらないこともない」


 私はカウンターに手をついて、前のめりになる。これが、話を聞くときに一番楽な姿勢なのだ。

 彼は水をあおって、静かにコップを置いた。水を全部なくすと、彼は話を始める。いつも通りのルーティンだった。


 ♦


 妻が旅立ったとき、私はそれまでで一番泣いた。後から気づいた。私は彼女を間違いなく愛していた。生前に言えばよかった言葉たちを、墓参りのたびに、1つずつ消化する。しかし、それが自己満足にしかならないこともわかっていた。あの世で聞いてくれているだなんて、これっぽっちも思ってはいなかった。むしろ、妻不孝な私とは口を利きたがらないと考えていた。


 娘は二十歳になった。妻の死のちょうど半年後が誕生日だった。小学生くらいの頃から田舎に不満を持っていた娘は、高校を卒業するや否や、上京してしまった。それから私とは文字通り一言もしゃべらなくなったから、妻の死を伝えるのは容易ではなかった。メールじゃなくて電話……、でも電話はハードルが……、などと考えているうちに、彼女の誕生日は1週間後まで迫っていた。


 娘から突然、連絡が入った。なんと、誕生日に実家に帰るとのことだった。私は、お祝い事の直前に人の死を伝えるほど無神経ではなかった。だから、ケーキを用意して待っているとだけ伝えた。


 そして、誕生日当日になった。


 娘はちゃんと帰ってきた。しかし、浮かれた顔も服装もしていなかった。上京してから金髪に染めたと聞いていたが、彼女は幼いころのような黒髪のままで、また服装は全身がその髪の色と同じ黒で埋め尽くされていた。これはまるで喪服だ。いや、喪服そのものか。


「おお、よく帰った」


 私が戸を開けて笑顔で話しかけても、娘はこちらをまるで見ようとしなかった。顔を下に向けて黙ったまま、娘は家に入ってきた。

 私には、その理由がわからなかった。強いて言えば、今までろくに話してなかったから、恥ずかしがっているのかもしれないと考えた。

 お茶を入れているときに、その考えが違うとわからされた。


「母さん、死んだんだってね」


 娘は、とても小さな声でつぶやいた。家の前の道路を車が一台でも通っていれば聞き逃してしまうかのような、それくらいに小さな声で。

 私は、お茶を湯呑に注いでいた手を止めた。とはいえ、これといって言うこともなく、ただ黙っていた。


「できれば、父さんの口から聞きたかったな」


 娘はまた、小さな声で言った。これには、反応に困ってしまった。半年も伝えるのを放棄した私は、当然責められるべきである。ただ、妻が死ぬまで長らく言葉を交わしていなかった娘に、単刀直入に言っていいものなのかと深く考えてしまった。愚かにも、それが妻に対してもずるいことだと気づかずに。


 私はまた黙った。それがずるいことくらい、いい歳になった私には十分すぎるほどよくわかっていた。私はずっと、ずるいままだ。娘の悲しむ顔を見たくなかったのかもしれない。娘の悲しみを受け止める自信がなかったのかもしれない。そんな言い訳が浮かんでは消え、浮かんでは消え……。


 黙ったままでは何も進まないと、気づくのが遅かった。遅すぎた。致命的なほどに。

 私は、娘のために注いだお茶をあおって、口を開いた。


「……こっちに来てくれ」


 娘の足取りは重かったが、ついてきてくれた。階段を上り、鍵もないのに固く閉ざしていた扉を開けた。目に見えるほどホコリが舞って、私は思わず顔の前を手で払った。落ち着くと、その部屋――妻の部屋の全貌が見えてきた。


 妻が死んでから、この部屋に入ろうと思ったことすらなかった。妻の死を実感するのが怖かった。しかし今、娘を道具に、気持ちの区切りをつけようとしている。これも私のずるいおこないの一つだった。


 後ろにいた娘は、妻の部屋に入っていくと、使われなくなったベッドのそばまで歩いて行った。ホコリだらけの部屋で大きく息を吸い込んで、


「懐かしいにおいがするね」


 私を振り返り、懐かしい笑顔を見せた。


「そうだな」


 ずるい私は、そう言うことしかできなかった。


 私がおしゃべりになれたのは、娘と、死んだ妻のおかげである。

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妻不孝 茶碗虫 @chawan-mushi

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