第54話 終焉の魔王 #4
あたしが六歳だった、あの夜。
お父さんは何かに怒ってあたしを殴り、
お母さんはあたしをベランダに締め出して、仕事に行った。
それは決して珍しくないことだったけれど、その夜は、とても寒かった。
雪の降るベランダで、口の中に広がる血の味と、
コンクリートと一緒に冷たくなっていく体温を感じていた。
あたしは最初から、いなくてもよかったんだ。
誰からも必要とされない世界。
滅ぼしたいと願っても、仕方ないじゃないか。
だからあたしは、もう終わってもいいのかも知れない。
十分、頑張ったと思うから。
(でも――)
でも。
あたしに優しくしてくれる人が、たくさんいた。
凍えていたあたしを助けて、居場所を与え、ただこの世に存在していることを喜んでくれる人がいた。
誰かを救いたいと思えるほどに、救われて来たのだから。
(そうだ。いま、この時に、あたしが絶対に守らなきゃいけないのは――)
何があっても、どうなっても。
桜花ちゃんだけは失いたくない――助けたいと、そう誓ったのではなかったか。
◆
(まだ、あたしに出来ることがあるとすれば……)
冷たい絶望が呼び起こした、幼い頃の記憶。
この世界において、あれは【終焉の魔王】が降臨するはずだった五百年前にあたる。
五百年。
それは遠い過去に思えるけれど、わずか五百年前であると、そう考えることも出来る。
――【魔王】よりも古きもの――【終焉の剣】。
あの【知恵の魔族】ですら、その本質を未知と認めざるを得なかった黒い大剣。
その剣は、遥かな太古から存在する遺跡に眠っていた。
もしかするとあれは誰かに造られたものではなく、世界の
【剣】とはすなわち、力の――そして、破壊の概念そのものである。
世界の仕組みの中で、剣自体が、何らかの役割を与えられているのだとすれば。
ハデスは【終焉の剣】を手にした勇者が予想よりも弱かったと、そう言っていた。剣が本来の機能を果たしていないのだとすれば、それも当然だ。
ハデスは勇者が剣を抜いたと思っていた。
実際は、違う。
【終焉の剣】は
(だから、もしかすると――)
◆
地に伏せていたルナは、わずかに顔を上げ、眼の前の現実に焦点をあわせる。
途端に、微かな希望を押し流そうと、生々しい感情が暴風のように押し寄せてきた。
――怖い。
どうなってしまうのか、わからない。
誰かを救おうと手を差し伸べるのは、とても怖いことだ。
そのあとに起こる奇跡も悲劇も、すべてあたしの責任なのだから。
決断するとは、そういうことだ。
そこから先は誰も守ってくれない荒野で、姿も見えない可能性に賭けて、暗闇に全身を投げ出すことに等しい。
(アイは……)
人助けが得意、などと言える彼女は、どれだけの失敗と喪失を重ねてきたのだろう。
誰にも理解されない孤独な荒野に生まれ、狂気に飲まれかけながら、それでも前を向いて立ち上がる。
だから、
ルナは震える手のひらを見つめて、ぎゅっと、それを握りしめる。
今にも霧散しそうな意識をかき集め、血を吐きながら――声の限りに叫んだ。
「勇者ッ! ――あたしを呼べ!」
――その瞬間。
【終焉の剣】に埋め込まれた紫の宝玉が、強く輝いた。
それはちょうど――あの遺跡でルナが初めて剣に触れた時と、まったく同じ現象のように見えた。
アイはその反応に息を呑み、そして、自らの役割を理解した。
勇者は【終焉の剣】を掲げ――【魔王】を、召喚する。
「――来い! 【終焉の魔王】!」
そして――【終焉の剣】の宝玉は、砕け散る。
ルナの眼の前、虚空から深紫の【渦】が出現する。
渦はその深淵をぽっかりと広げて――ルナの身体を飲み込み、消滅した。
ほとんど同時に。
天空から、巨大な山吹色の【魔力】が地表へと落下した。
大地そのものが破裂したかのような轟音を響かせて、魔力の塊は、その場にあるすべてを完膚なきまでに終わらせる。
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