第54話 終焉の魔王 #4

あたしが六歳だった、あの夜。

お父さんは何かに怒ってあたしを殴り、

お母さんはあたしをベランダに締め出して、仕事に行った。


それは決して珍しくないことだったけれど、その夜は、とても寒かった。


雪の降るベランダで、口の中に広がる血の味と、

コンクリートと一緒に冷たくなっていく体温を感じていた。


あたしは最初から、いなくてもよかったんだ。

誰からも必要とされない世界。

滅ぼしたいと願っても、仕方ないじゃないか。


だからあたしは、もう終わってもいいのかも知れない。

十分、頑張ったと思うから。


(でも――)


でも。

あたしに優しくしてくれる人が、たくさんいた。

凍えていたあたしを助けて、居場所を与え、ただこの世に存在していることを喜んでくれる人がいた。

誰かを救いたいと思えるほどに、救われて来たのだから。


(そうだ。いま、この時に、あたしが絶対に守らなきゃいけないのは――)


何があっても、どうなっても。

桜花ちゃんだけは失いたくない――と、そう誓ったのではなかったか。





(まだ、あたしに出来ることがあるとすれば……)


冷たい絶望が呼び起こした、幼い頃の記憶。

この世界において、あれは【終焉の魔王】が降臨するはずだった五百年前にあたる。

五百年。

それは遠い過去に思えるけれど、であると、そう考えることも出来る。


――【魔王】よりも古きもの――【終焉の剣】。


あの【知恵の魔族】ですら、その本質を未知と認めざるを得なかった黒い大剣。

その剣は、遥かな太古から存在する遺跡に眠っていた。

もしかするとあれは誰かに造られたものではなく、世界の開闢かいびゃくから存在するのではないか。


【剣】とはすなわち、力の――そして、破壊の概念そのものである。

世界の仕組みの中で、剣自体が、何らかの役割を与えられているのだとすれば。


ハデスは【終焉の剣】を手にした勇者が予想よりも弱かったと、そう言っていた。剣が本来の機能を果たしていないのだとすれば、それも当然だ。

ハデスは勇者が剣を抜いたと思っていた。

実際は、違う。

【終焉の剣】は勇者アイではなく、魔王ルナに反応して起動した。


(だから、もしかすると――)





地に伏せていたルナは、わずかに顔を上げ、眼の前の現実に焦点をあわせる。

途端に、微かな希望を押し流そうと、生々しい感情が暴風のように押し寄せてきた。


――怖い。


どうなってしまうのか、わからない。

誰かを救おうと手を差し伸べるのは、とても怖いことだ。

そのあとに起こる奇跡も悲劇も、すべてあたしの責任なのだから。

決断するとは、そういうことだ。

そこから先は誰も守ってくれない荒野で、姿も見えない可能性に賭けて、暗闇に全身を投げ出すことに等しい。


(アイは……)


人助けが得意、などと言える彼女は、どれだけの失敗と喪失を重ねてきたのだろう。

誰にも理解されない孤独な荒野に生まれ、狂気に飲まれかけながら、それでも前を向いて立ち上がる。


だから、勇者アイと一緒なら、きっと――


ルナは震える手のひらを見つめて、ぎゅっと、それを握りしめる。

今にも霧散しそうな意識をかき集め、血を吐きながら――声の限りに叫んだ。


「勇者ッ! ――!」


――その瞬間。

【終焉の剣】に埋め込まれた紫の宝玉が、強く輝いた。

それはちょうど――あの遺跡でルナが初めて剣に触れた時と、まったく同じ現象のように見えた。


アイはその反応に息を呑み、そして、自らの役割を理解した。

勇者は【終焉の剣】を掲げ――【


「――! 【】!」


そして――【終焉の剣】の宝玉は、砕け散る。


ルナの眼の前、虚空から深紫の【渦】が出現する。

渦はその深淵をぽっかりと広げて――ルナの身体を飲み込み、消滅した。


ほとんど同時に。


天空から、巨大な山吹色の【魔力】が地表へと落下した。

大地そのものが破裂したかのような轟音を響かせて、魔力の塊は、その場にあるすべてを完膚なきまでに終わらせる。

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