第44話 強制召喚 #2
アイの瞳は床に転がる肉塊を超え、ハデスを超え――まっすぐに、ルナを捉えていた。
「――ルナ」
その呟きには、言葉にできない感情が込められているように思えた。
勇者アイはその瞳に、二年半という月日を刻み込んでいた。
時計塔のある街で初めて出会った日、ルナより年下に見えたあの少女は、おそらく既にルナの年齢を超えている。
時間の経過だけではない。その身体には、終わらない闘争が残した大小の傷が見て取れた。
勇者は戦い続けていた。
魔族を憎み、孤独な戦いを続け、ついに――魔族の本拠地に辿り着いた。
そこに待ち構えていたのは、たったひとり、世界の真実を理解してくれたはずの友人――ルナだった。
アイを救ってくれたかも知れない、最後の希望。
それは、考えうる限り最悪に近い舞台での再開であった。
信じざるを得ない。
あの雨の夜、ルナ自身が告げたように――
「ほんとに――【魔王】――なの、か」
アイの声は、震えていた。
「……アイ……」
「ルナ……ボクを、騙したな」
「……」
違う、という言葉が、出てこない。
アイの声には、その表情には、二年半の――そして彼女自身の孤独な人生の出口を求める、痛いほど引き絞られた苦悩が見て取れた。
魔王と勇者。
慈愛と憎悪。
救済と狂気。
二週と二年。
救われた少女と、救われなかった少女。
二人の間には、埋めようのない溝が横たわっているように思えた。
「――お前が」
勇者は幽鬼のように、ゆらり、と歩を進める。
無造作に引きずられた【終焉の剣】が床を削り、不協和音を奏でた。
失い続けた少女。
その狂気と紙一重の信念は、血と孤独で練り上げられ、ひとつの自我を形成しているかのようだった。
「お前が、お前が、お前が、お前が、お前が、お前が――」
アイの眼に映っているのはルナだけだった。
先程まで戦っていた肉塊も、
「――あああああッッ!」
その咆哮は、漆黒の剣撃を伴っていた。
地を蹴ったアイは一息に距離を詰め、ルナに大剣の斬撃を叩き込む。
だが――
(……っ!)
ルナは、反撃も防御もしなかった。
なぜなら、床に転がった肉塊が【人型】に変化する光景を見ていたからだ。
角と翼を持つ女悪魔――オシリス。
形成された赤い瞳が、ぎらりと光る。
次にオシリスの姿が像を結んだのは、アイとルナの間だった。
オシリスはルナを庇うようにして、その身でアイの斬撃を受け止めていた。
――否。
受け止め切れては、いなかった。
盾代わりに構えた左手は切断され、勢いを殺そうと差し出した右手には、竹を割るように肘のあたりまで黒い剣が食い込んでいる。ダメージはそれに留まらず、勇者の刃は胴体の中心部まで到達していた。
オシリスは全身を使って【終焉の剣】からルナの身を守っていたのだった。
「オ、オシリス――!」と、ルナは思わず声をあげる。
どう見ても――致命傷だった。人間の常識に照らし合わせれば、だが。
「アイ……二度目はない、と、言った……はずです」
オシリスは血を吐きながら、そう告げた。
切断面から弱々しく生えかける触手は、しかし、傷を再生することなく黒い煙を上げて崩壊してゆく。
やはり【終焉の剣】によるダメージは、オシリスの生命力を以てしても回復できないようだった。
「リース……!?」
アイは愕然として、オシリスが人間に扮していた時の名を呼ぶ。
傷口から覗く触手には見覚えがあった。アイが振り返ると、先程まで床に転がっていたはずの肉塊が消えている。
アイの瞳には、
勇者の注意が逸れた瞬間。
ハデスが円を描くように腕を振ると、ルナと桜花を守るようにして半円形の【障壁】が展開した。乳白色の障壁が一瞬だけ視界を覆い、すぐに透明になる。
だが強固な【壁】が未だそこに存在することを、ルナは確かに感じ取れた。
同時にオシリスは口を大きく開き、血の混じった白い塊――巨大な骨片を射出する。
「――ッ!」
アイはギリギリのタイミングで飛び退いて、至近距離からの骨弾を回避した。
アイは、ルナ達から離れた場所に着地する。
アイの回避に伴ってオシリスの身体から剣が抜ける。
オシリスが膝を付くと、大剣によって押し止められていた体液があたりに飛び散った。
ルナは、ちら、と背後の桜花に目を配る。
この場で唯一、起こっている事態を理解できない桜花は――気丈にも悲鳴さえあげていないものの、眼前で繰り広げられる惨劇に息を呑み、両手で口を覆っていた。
(桜花ちゃん……何とか、この場を切り抜けないと……!)
四面楚歌と言ってよかった。
ルナは今や、魔族が人を喰らうという事実を知っている。
そして魔族は長きに渡り、魔法を駆使して人々の精神を侵食し、世界から真実を覆い隠してきたことも。
それほどの長期間にわたって大規模な【精神操作魔法】を維持し続けられる存在を、ルナは確かに知っていた。
(――【知恵の魔族】――ハデス……)
だが、眼の前の現実はどうか。
危険なはずの魔族は身を挺してルナたちを守り、他ならぬ人間の剣が――剥き出しの【力】が、ルナの命を狙っている。
かといって元の世界に転移したところで、また、こうして強制召喚されるだけだ。
「……」
何を信じれば、どう動けば――桜花ちゃんを、この死地から守り通せる?
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