第42話 百合ヶ峰桜花 #4

ルナは涙目で笑ってみせる。


「えへへ……ごめん。はしゃぎすぎたから、酔っちゃったかも」

「……」


桜花は何も言わずにルナの横に並ぶと、夜の海を眺めた。


「船酔いだけならいいのですけれど。学校でも、トイレで何度か吐いていたでしょう?」

「……バレてたか」

「共犯者のわたくしにも、理由は話して頂けないのかしら? 異世界で、何があったのか」

「……」

「もしかして、召喚して欲しいなんて、わたくしが無理を言ったのが……」

「――ううん、そんなことない」


ルナは慌てて否定する。そして、


「ただ……」


と言葉を繋ごうとして、そこで止まってしまう。

何から話せばいいのか、わからなかった。


「……」


桜花は急かさなかった。低く唸る船の機械音と波の音が、一定のリズムで二人を包む。

ルナは言葉を選ぶようにして、ゆっくりと話し始めた。


「あたしは――もとは【岩崎】じゃなくて」


直接の答えになっていない告白に、桜花は疑問を挟まず頷いた。


「ええ。おっしゃっていましたね」

「……前の両親は、酷いヤツでさ。虐待? ネグレクト? って言うのかな。あの頃はずっともやがかかったみたいだったから、あんまり思い出せないけど。とにかく、それで死にかけたところを親切な人に助けてもらって、いまの家に引き取ってもらって。あのシスコン見たでしょ? 養子なのに……本当の家族みたいに育ててくれた」

「……ええ」

「だからあたしも、。お父さんやお母さんに無理言ってこの高校に来たのも、その時の恩人が通ってたから、ってだけ。一緒の経験をすれば、同じことができるようになるんじゃないか、みたいな。――単純でしょ」

「素敵なことだと思いますわ」


桜花はそう言って微笑む。


(子供にとって……)


と、ルナは考える。


――子供にとって、

子供は無力で、生まれ落ちた世界が狂ってしまえばそれに翻弄される。

九年前、ルナは無関心と暴力に殺されかけた。

幼いルナはきっと世界を、存在する何もかもを壊したいと願い――その祈りは、見知らぬ異世界に【終焉の魔王】として降臨するという宿命に結実してしまった。


だけど、幸運にして他人の善意に救われたルナは、その過去を遠くから眺められるようになった。

ルナのことを見つけてくれた人がいた。優しく頭を撫でてくれた人がいた。顔も思い出させない、手を引いてくれた人がいた。新しい生活を与えてくれた人がいた。ルナの居場所を作り、育ててくれた人がいた。

たくさんの人がルナを助けてくれた。

長い時間をかけて、みんながルナを未来へと連れて行ってくれた。


だから――折れた枝を拾うように、

今度は自分自身が誰かを救う側に回りたい、と願ったのだ。


「――でも、助けようとして、失敗しちゃった」

「それが、異世界でのこと?」


桜花の問いに、ルナは頷いて応える。


「あたしは……全然、わかってなかった。。誰かを助けることは、それ以外のすべてを見捨てることで――その責任は、すごく大きかったんだと思う。それなのにあたしは、最初に見たものを正しいと信じ込んで、疑いもせずにそれを押し付けて……。あたしのせいで、あの世界はもっと酷いことになった。こんなことなら、何も――何もしなければ、よかったのに」


ルナは声を震わせて、言葉を続けた。


――」


と、その先を口にする前に、桜花の頭がルナの側頭部にごちんとぶつかった。


「いて」と、ルナ。

「うう……思ったより強かったですわ」


桜花もぼやいて、自身の頭をさすった。


「――岩崎さんが異世界で何を見たのか、わたくしはわかりませんけれど」


と、痛みのためか涙目になりながら、桜花は語る。


「お話をお伺いする限り、岩崎さんは悪意をもって失敗したわけではないのでしょう?」

「それは……そうだけど」

「岩崎さんが、岩崎さん自身の信念に基づいて手を差し伸べたのなら――助けてもらった過去も失敗した事実も、すべてかてにして、とりあえず現在を肯定することをオススメ致しますわ」

「……」

「ま、事実というものは……大きければ大きいほど、消化に時間がかかるものでしょうから。でも、いまの感情だけで未来を――岩崎さん自身の価値を決定するのは、ことです」

「もったいない……」

「辛かった昔も、今なら冷静に振り返ることができるのでしょう? でしたら、今の失敗を評価するのは、もっと先に進んでからでも遅くはありません」

「……うん」

「少なくともわたくしは、ありのままの岩崎さんが好きですわ。がんばり屋なところも、優しいところも、先入観で他人を判断しないところも――あと、たまに東北っぽいイントネーションが混じるところも」

「えっ、ちょっ、ウソ、あたし訛ってる!?」

「ぜんぶ含めて、いまの岩崎さんを構成しているのですから」

「あの、東北の件もうちょっと詳しく……」


あわあわとすがりつくルナの追求をかわして、桜花はいたずらっぽく笑った。

それに釣られてルナも笑う。

ルナは、心がずいぶん軽くなっていることに気が付いた。


桜花との会話で、何か現実的に問題が解決したわけではない。


(それでも……)


お互いを想い、うっすらと理解して、ただ存在を肯定してくれること。

その距離と暖かさが、いまのルナにとって何より価値のあるものに感じられた。


どうあっても桜花だけは失いたくないと、ルナは強く願った。

この友人だけは――絶対に。





――風が吹いた。


その強さにルナは思わずよろめき、手すりに捉まる。そして、隣の桜花に声をかけようと視線を向けた、その時。


――二人を中心として、甲板に山吹色の巨大な魔法陣が浮かび上がった。


「な――何が起こっていますの!?」と、困惑した桜花の声。


ルナは息を呑み、その可能性に思い至らなかった、さっきまでの自分を恨んだ。


――


異世界から逃げ出した?

否、


ルナという唯一の魔力源を失えば、魔族は滅びの道を辿る。あのハデスが――五百年に渡って、執念深く【終焉の魔王】降臨の方法を探した【知恵の魔族】が、その運命を大人しく受け容れるわけがない。

初めて部室で召喚されたときのように、強制的にあちらに転移させられることは予想できたはずだ。

一人で塞ぎ込み、自分自身の感情しか見えていなかった視野の狭さに歯噛みする。


そして今回召喚されてしまえば、異世界から帰れない可能性すらある。

契約を破ってルナの自由意志など、もはや尊重する理由はないからだ。


そして何より致命的なのは、この魔法陣の上に、桜花も――


「桜花ちゃん、逃げ――!」


ルナの言葉が終わらないうちに。

魔法陣は、山吹色の光とともに二人を飲み込んだ。

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