第41話 百合ヶ峰桜花 #3
――晴れ渡る空の下、豪華客船が大海原を進んでゆく。
何百人もの収容人数を誇る船体が乗せるのは、運行に必要な乗務員を除けば、ほんの数人である。
「――すごいすごい! はやーい!」
ルナは船首に身を乗り出して興奮気味に叫んでいる。
山育ちのルナにこれまで縁のない、海の上を走るという経験。それは、様々なわだかまりを忘れさせるには充分だった。
その様子を遠巻きに見守るのは、桜花と、背後に控える凶悪な風貌をした若い男であった。
「岩崎さん、楽しんで頂けているようで何よりですわ」
「よかったっす。……無理言って、俺まで連れてきてもらっちゃって」
「いいえ、お気になさら――」と応えつつ桜花は振り返り、「ひゃっ!」と怯えた声を上げる。
次の瞬間には落ち着いたらしく、ふぅ、とため息をつきながら桜花は男を睨みつけた。
「……失礼。突然その顔が視界に入るとびっくりするじゃありませんか。五十メートル離れて、まず一声かけてから近付いてくださいまし」
「俺、いつになったら人類扱いしてもらえるんスかね……」
悲しげな――しかし凶悪な――顔でぼやくのは、ルナの兄、岩崎
生まれつき目付きが絶望的に悪い彼は、外見に反して平和主義であると共に、過保護とも言っていいほど妹のルナを溺愛している。
ルナが何日か百合ヶ峰家に泊まったあと――実際は異世界で過ごしていたのだが――元気がなくなったことで、今回の船旅を心配して同行を願い出たのだった。
「ま、お兄様が心配されるのは理解できます。ですが既にお伝えした通り、わたくしも……」
「ルナが急にああなった理由はわからない、って話でしたね」
「……ええ。ひとまずは、船を楽しんで元気になって頂くのが先決かと」
二人が視線を合わせて頷きあったとき、ルナが船首から声をあげた。
「桜花ちゃん! あれ何? あれ!」
「ふふ――今行きますわ」
桜花は微笑みながら船首に向かって歩き出し、七賢がその後ろに続いた。
◆
貸し切り状態のクルーズ船で、ルナたちは日本近海を巡る二泊三日の船旅を予定していた。
ルナは何千人という規模の巨大な客船を想像していたが、笠村の語るところによるとその規模の船はむしろ大衆向けで、よりランクの高いクルーズ旅行はこういった数百人スケールの船が主流だと言う。
その笠村はと言えば船の免許も持っているとのことで、クルーズ船の運転に駆り出されている。もちろん彼一人で船が動かせるわけではないし、食事など各種サービスを提供する目的もあり、ルナたちのためだけに何人もの乗務員が乗船していた。
桜花の一声でこれだけの人間と船舶が動かせてしまう事実に、改めて住む世界の違いを痛感させられる。
(でも、桜花ちゃんは……)
笠村の言うように不器用で型破りな方法だけど、確かに桜花はルナのことを元気付けようとしてくれているのだ。
誰かを想う時、手の中にあるものを差し出す気持ちはルナも理解できる。
「……」
ルナは船室から廊下に出た。
ルナたちはひとしきり船の上を楽しみ、豪華なディナーを終え、各自に割り当てられた部屋で一休みしていた。
だが、一人で部屋の中に居ると思考の底から暗い考えがぽこぽこ湧き上がってくるような気がして、夜風に当たろうと部屋を出たのだった。
そのまま甲板に繋がる扉を開けると、ざあっ、と夜の海風がルナの髪を踊らせる。
「わっ……さむ」
呟いて上着の前を閉じ、ひとつ身震いする。
ルナは怖いもの見たさで甲板の端まで歩き、船の外に広がる海を見下ろした。
圧倒的な物量の暗い水が蠢く様子は、昼間とは打って変わり、どこか恐ろしく感じられた。
(……)
規則的な船の稼働音を聞きながら、ルナはあの夜――洞窟でアイに別れを告げた夜――を、思い出していた。
ルナが異世界のすべてを投げ出して、元の世界に逃げ帰ったときのことを。
(だって……あたしには、どうしようも……)
もともと世界をどうにかできるなんて、ひどい思い上がりだったのだ。
だから逃げ出して、ぎゅっと目を閉じてしまえばいいと、そう思った。
異世界では、こちらの一週間が一年に相当する。時間の流れが、すべてを洗い流してくれるような気がした。
幼い頃――岩崎家に引き取られる前の辛い日々も、ぎゅっと目を閉じて我慢していればよかったのだから。
ルナがこちらの世界で高校を卒業する頃には、異世界では百年以上が経過している。
アイはきっと、もう死んでいるだろう。
魔族は残っているだろうか。
勇者に駆逐されていなければ、少なくともルナが魔大樹に注ぎ込んだ魔力が尽きるまで、人間は狩られ続けるに違いない。
脳裏にフラッシュバックする、魔王城での食卓。
「――うっ」
と、ルナは手すりから身を乗り出して、暗い海に胃の中のものを吐き出した。
「岩崎さん……」
声に振り返ると、桜花が不安そうな表情でルナを見つめていた。
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